歳時記を開くと 三月やグローブがいい音をして / 今坂鉚二
があり、連ドラ「ごちそうさん」のふ久の兄と先輩(諸岡)とふ久の話を思
い出しました。 ふ久が諸岡の子を生みたいと「押しかけ女房」となる姿に、
春三月の気そのものを見る思いがします。
諸岡の投げこむ球がふ久の兄泰介のミットを鳴らすのか、ミットが球に
音を与えるのか、二人のキャッチボールを見ていた彼女は命の伝達者
としての女性の声を身体全体から発していたに違いありません。
三月の陽は確かなり今夜の星 / 清蛙
歳時記を開くと 三月やグローブがいい音をして / 今坂鉚二
があり、連ドラ「ごちそうさん」のふ久の兄と先輩(諸岡)とふ久の話を思
い出しました。 ふ久が諸岡の子を生みたいと「押しかけ女房」となる姿に、
春三月の気そのものを見る思いがします。
諸岡の投げこむ球がふ久の兄泰介のミットを鳴らすのか、ミットが球に
音を与えるのか、二人のキャッチボールを見ていた彼女は命の伝達者
としての女性の声を身体全体から発していたに違いありません。
三月の陽は確かなり今夜の星 / 清蛙
今日冬至、一年でもっとも昼時間が短い、さて東京の昼時間は?
日の出6時47分、日没16時32分 昼時間 9時間45分でした。
同じ日本でも、札幌は9時間1分、仙台9時間31分、大阪9時間51分、
福岡9時間57分、那覇10時間31分。 札幌と那覇の差1時間30分。
明日からは昼時間が長くなりますが、寒さの厳しくなるのはこれから
です。 風邪など引かないように柚子湯に入るのも、人の生命力の衰え
る時期に、植物の力を得て甦るようと願うことからきているのでしょう。
生まれ出るごとくに柚子湯上がりけり 高橋悦男
毛穴より疲れ抜けゆく柚子湯かな 森山暁湖
季語・短日で現実的な句を、
日短やかせぐに追いつく貧乏神
この現実性は何時の時代か?詠み手は 一茶。
一茶の「日永」の句を
禄盗人日永なんどゝほたえけり
説明 ≪季語は「日永」で春。「禄盗人」は、今日の「税金どろぼう」であろう。
当時の武士階級を暗示している。「ほたる」は、つけあがる、ふざける意の
口語。これもまた権力者批判である≫(矢羽勝幸 『「あるがまま」の俳人
一茶』 NHK出版)
現代の権力者・支配者への批判の姿は、
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-12-22/2013122204_05_0.html
今日は参加できませんでした、明日の「赤旗」などでご報告します。
昨夜の続きです。
頂いた彼の年表に1974年4月某大学土木工学科を卒業し、ある建設関連
会社に測量士補として入社、その9月東北地方のダム現場にいました。
その時詠んだ詩です、年表に紹介されていました。(行替えは変えてあります)
湖底への村 (1974年9月)
緑の山々が紅に染まる頃 沢の水に顔を押しつけて飲みこんで 最後にごくんと飲みこんで
そのまま青い空を見あげたら すすきのそばに白い線雲があったのだ しばらく見つめていたら
なんだか吸いこまれていくような気がして 立ちあがったのだ 首にまわしたタオルで顔をふき
涼しい風が通っていく感触がたのしくて そしてまた悲しそうでもあったので つったっていたのだ
ここはダムの建設現場 2 ・3年後には この沢も あのすすきも あの一本杉も みんな湖の中
あの半鐘のある火の見やぐらも そしてあの葮ぶきの大きな家も
このにある分校も みんなみんな水の中
俺はダム建設付替え道路用の測量をしているのだ
俺が長さを測るたびに 俺が角度を測るたびに 俺が杭を一本打つたびに
一つひとつ確実に 湖の底へと続いていくのだ
美しい小さな山あいの村々が どうして沈まなければならないのか
とんぼや、やまめや、沢蟹をとった あの子どもたちのふるさとは
どうして沈まなければならないのか
この失われていくものたちを 今では 俺にはどうすることもできないのだ
だから俺はこの湖底へと続く失われていくものたちを 今しっかりと見つめているのだ
怒りと悲しみをのせた この秋風とともに
昨年の今ごろ、午後の三時が仕事の上りでロッカーの前で着替えをしな
がら 「いつまでも暑いねー、汗が出るもの」 などと喋っていたものでした。
ちょうど今日の様な日だったのでしょう。 それがそのロッカー前で 「涼しく
なったね、寒い位だ」 と朝の出勤時に仲間と話交わしたのは、その半月位
後のことだったでしょうか。
秋の彼岸過ぎて、十日以上たっています。 「暑さ寒さも彼岸まで」 の言葉
も時期がずれてきているような気がすると思っていましたが、最近コメントを
交わすようになった 「(信州の)屋根裏人」さんの話では、「9月22日にストー
ブ、電気毛布、敷き毛布、カーペを出して準備はしました」 そうです。朝晩10
度を下回るとのことで、湘南の地とはかなり温度差があります。
子規の俳句に 「母の詞(ことば)自(おのずか)ら句になりて」 の小題がある
毎年よ彼岸の入りに寒いのは
が詠まれたのは明治26年だそうで、1893年今から120年前になります。
この彼岸は季語としてですから春の彼岸ですので、3月のその頃まで寒さが
残っているのが当然だったのでしょう。
言いかえれば、「彼岸の入りに暑いのは」 ともいえるかと思うのですが、そ
れもかなり地域差があると、屋根裏人さんの話から伺えます。
秋彼岸山は入り日を大きくす 成田千空
ふる里信州の山に大きく落ちる日を見たいものです。
6日、晴れの日であればいいのですが。
これは「遺すべき一句」の続編です。
高野素十という俳人に
生涯にまはり燈籠の句一つ
があり、前書きが 「須賀田平吉君に弔ふ」 とあります。
山本健吉の 『俳句鑑賞歳時記』 に、
≪さて、これはしみじみとした情懐のこもった挨拶句である。句が人々の記
憶の中に残るということはたいへんなことである。思い出されない名句という
ものが何の意味があろう。この俳句の下手な故人は、下手の横好きで熱心で
もあったが、 「まはり燈籠」 の句によってたった一度人々を三嘆させたことが
あった。 故人と言えば、思い出すのは「まはり燈籠」の句一つである。もって瞑
すべし。それが「花」の句とか「月」の句とかでなく、「まはり燈籠」の句であること
がおもしろい。軽いユーモアを含んだ明るい弔句である。≫とあります。
この句についてこれ以上の「鑑賞」は必要ないでしょう。
そうなると、「俳人・須賀田平吉」の「まはり燈籠」の句がどんな五七五であるの
か、下手な横好きの一人として知りたくなります。しかし、手元には何の手がかり
がありませんが、ITのなかに手がかりがありました。
須賀田平吉=素十の母親の弟の夫人の弟、という関係、42歳で亡くなったそう
で、その句とは
軍艦も人も急げり走馬燈
その句に関係して、以下のようなことも記されていました。
≪日本医史学会会長清(蒲)原宏医博(新潟大学名誉教授)が、高野輿巳医博(俳号素十、 新潟大学名誉教授、元奈良県立医科大学学長)の遺した弔句をめぐり、私の義父須賀田平吉との関係を調べるうちに、須賀田家と高野・加藤・市川家が縁つづきであることが判明し、内容を群しく 蒲原先生が俳誌「雪」に、平成3年の6、7、9、10、11月号の5回にわたり「一弔句の背景」と題して連載された。≫ (この文は「西田博」名の一文の最終部分です)。
遺すべき 一句の欲しや 敬老日 加藤康人 91歳
コメント「六十年の俳句生活の中で遺したき句の貧しさを思う」
今日敬老の日、本州の多くが大型台風に襲われた下での祝日となってしま
いました。この様な状況下で多くの高齢者が災害難民になりやすく、避難指示
26万人などというニュースのなかに、とまどう姿が想像されます。被災による
犠牲者の年齢をみれば高齢者で、それも独り暮らしあるいは高齢者世帯。
地震・台風・大雨などの厳しい自然環境にある日本列島のうえに成り立ってい
る日本社会は4人に1人が65歳以上という高齢者社会になっています。それ
だけに高齢者の福祉増進に焦点をあてた施策が求められ、政治の方向転換
が必要です、今日の 「赤旗」 の 「主張」 に目を通していただければ、と思います。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-09-16/2013091602_01_1.html
さて、この俳句は 『1億人のための 辞世の句』 という本の中の一句です。
編者(荒木清氏)による鑑賞文
≪作者の俳句生活はもはや六十年。
それでも後世に遺る俳句の一句があるのかと自分に問いかける。
俳人として、後世に遺る句が一句、二句あれば本望と俳人、皆が思う。
俳句とはそういうもの。作者の謙虚さと素直な思いに拍手。
九十過ぎてこのような思いをいだけるなんて、俳句生活は素晴らしい。
老いてなお、このような俳句を作る日本人の伝統文化の深さをあらためて実感さ
せられる。この一句は「遺すべき一句」への執念ともみることができる。≫
一番下の孫から敬老の日だということでお祝いの電話。 小学校2年生で自分
専用の電話を持っているのが当たり前の時代・社会に、高齢者が孤立し被災者
として犠牲になっているというのも現実。 この現実に変革の兆しを記せる一句が
遺る句になるのでしょう。
昨日保己一忌のことを書く時、開いた歳時記の同じ頁に 「白雄忌」 があ
りました。 「陰暦九月一三日。江戸中興俳人、加舎白雄(かやしらお)の忌日。
~元文三年(1738)、信州上田藩士加舎吉享の次男として江戸深川で出生、
~寛政三年(1791)没、五四歳」。
以前もこのブログで取り上げたような気がしますが、我が故郷・上田の俳人
となれば見過ごすわけにはいきません、お付き合い下さい。
別の歳時記に「今も信州上田では忌日法要が行なわれている」とありますか
ら、http://www.ueda.ne.jp/~sirao/(加舎白雄顕彰保存会のHP)をのぞ
きましたら、「1999年12月9日更新」のままのようです、さて、今日は?
それはとも角として、白雄について少し書きます、といってもkaeruの見識で
はありません。ただ同郷の俳人だ、ということでいろいろ目移りをさせているだけ
です。ここではこれも同郷の俳人・矢島渚男さんの 『白雄の秀句』(講談社学芸
文庫) に寄りかかっています。
上田の保存会HPに書かれていますように、白雄は「天明中興の五傑の一人」
蕪村・暁台・蘭更・白雄・蓼太ということですが、この人々を正岡子規がどう評価した
か、がかなり問題になるのです。 最初のころ(1899年・M32)は「白雄を二位にあ
げていることが注目されよう」 としていたのが、「その後、子規は白雄を推賞するこ
とをしなかったばかりか、むしろ否定的評価を下すにいたっている。それはなぜか」
と矢島さんの筆は続くのですが、この子規の評価が「加舎白雄は不当に閑却されて
きた俳人である」、と『白雄の秀句』 の 「まえがき」 の冒頭に記される元になります。
そして子規につづき、虚子の「俳諧史評価は投げやりと言わざるを得ない」あり様
で、子規・虚子の「評価は、多くの鑑識力に欠ける俳諧史家たちに決定的に作用し、
ほとんど無批判に盲従するという結果をもたらしたのであった」と、矢島さんは断じて
います。
この結論に「無批判に盲従する」という格好になりますが、今はその立場で白雄を
読んでみようと思っています。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-09-12/2013091201_06_0.html
これは、今日の 「赤旗」 の 「潮流」 です。
「きょう9月12日は~江戸時代後期の盲目の国学者・塙保己一(はなわほ
きいち)が亡くなった日、保己一忌です」と書きだしています。
それで、歳時記を開きました。
「陰暦九月十二日」 としているのはやはり歳時記です。 現代的にいえば、
1821年10月7日(和暦・文政四年九月十二日)没、享年76歳。
「潮流」文中にありますが、6万冊の蔵書を全て記憶していた、とは!
アキちゃん的に 「じぇ」 で表現するのは軽すぎる気がしますが、あえて言え
ば 「じぇ×6」 になるでしょう。 テレビでこれまでの最高は 「じぇ×5」 だったと
思います。 ただ驚いていればいいというものでのないでしょう。
76歳、同じ歳ではあるが、享年にはまだかなりあると独り決めをしている者と
して、保己一精神の一端にでも触れなければと思います。
わが生まれ本の神田や保己一忌 池上不二子
祭り太鼓がかすかに聞えます。
少し体がきつくなったので祭から戻ってきています。 明日は早朝からの
出になりますし、ということで早寝をする前、祭の夜らしく祭を詠んだ俳句
など 「つぶやき」 に入れようとある本を開きましたら
行き過ぎて胸の地蔵会明りかな 鷲谷七菜子
≪地蔵菩薩の縁日は八月二四日である。/辻の石地蔵に新しい着物を着
せて白粉をつけ、賑やかに地蔵会をやっている街角を通り過ぎて、ふと子供
の頃を思い出す。幼馴染の誰彼の顔が浮かんで胸に 「地蔵会の明り」 が灯
るのである。≫ 鈴木栓子著 『俳句創作百科 社寺 ・ 祭』 (飯塚書店)
地蔵菩薩ですから神様ではなく仏様なのです。 それも子供に因縁が深く
「お地蔵さん」 と呼ばれ村の道端や分かれ道の道しるべのように立っている
姿が浮かびます。 歳時記によれば近畿地方にて盛んであると記しています。
昨日今日の大雨による影響も受けている所も多いのでしょう、 おびえる子
を守る親や祖父母もおられることでしょう。
川上に崖崩れあり地蔵盆 山本洋子
(『ザ・俳句 十万人歳時記 秋』)
塩田丸男 編・著 『十七文字の禁じられた想い』 (1995年8月1日・講
談社) のカバーに記されています十二句を。
カバー表
戦さ終ゆ渇く乳房を嬰(こ)にひらく 沢田利江
終戦をそっと胎児へ手で教え 土屋亮子
機影絶えし炎天奈落の深さ見す 花田春兆
落蝉を蹴れば翅うつ仰向けに 無着成恭
熱し暑し戦友の腸焼け渋る 下元 勉
カバー裏
小さな駅で一人の兵士が泣いていた 森 功
今日よりは帯解く眠り蚊帳青し 若月恵子
世の何処か妻はゐる筈虫の声 西村 実
終戦日まだ痙攣す戦友(とも)の屍 本田 実
なげ出した三八銃に赤とんぼ 八住利一
暑きくにの暑き日なりけり終戦の詔 日影丈吉
灼ける空見上げる兵の膝細し 大橋節夫