外出から戻って家の前でカミさんが立ち話をしていました。道を掃いていた箒を上げたり下げたりしているのは、かなり気の入った話なのでしょう。
相手の御婦人から「お元気そうで……」と声をかけられたので、「いま、96歳の元気なご婦人の話をしてきて、こちらが元気をもらってきたので……」と返事をして私は家に入りましたが、カミさんはそれからも10分以上立ち話を続けていました。これがうちのカミさんの元気な素になる時間でしょう。
さて、タイトルに関する話です。
96歳、大正15年生まれのその婦人が太平洋戦争が終わった年には19歳で、終戦は朝鮮の釜山で迎えたそうです。帰国するが、両親は残らざるを得ない事情があり、妹と2人で帰国の船に……、この時の話も命に関わる状況があるのですが、またの機会に触れます。要はそれから2年後、両親も無事帰って来て姉妹で会えました、その時母親が2人に近づいてきて2人の足に触れてきたそうです、幽霊ではないかと!
この話も含めて貴女のことを聞書きします、と約束しました。
戦争の記憶を記録として残す、そのことを強く感じていたのは「小坪砲台爆破事故」に関連して3つの文章があることにも寄ります。
2つは当時の関係者のもの、
(『写真・資料で見る 逗子の戦前・戦後』p 29)
本文部分です。
1945年10月20日。 終戦となり2ヶ月が経過し、子ども達の中に安堵と安らぎが生まれつつある中、小坪にとって忘れられない大事故が発生した。
その日は、午前中小坪小学校の運動会の予行練習があった。
午後、子ども達の会話の中に、午前中には米軍MPが管理し立ち入り禁止制限がひかれているが、午後には居なくなっているから、遊びに行こうとの口コミで、小坪西町 (今のもやい)の裏の崖道に対艦砲台を見に集まった。
集まった子ども達は、小坪小学校1年生から6年生であった。この対艦砲台は、トンネルで被われていて砲台がボタン一つで前後に動き、また砲門が上下に動くので、当時としては珍しく子ども達が群がってトンネル出口で遊んでいた。トンネル内付近には、火薬の箱がたくさんあり、その中の一つに缶詰があったとのことで、大人達が次々と火薬の箱壊しでトンネルの中に入っていった、火薬は、ちょうど溶接棒のようなもので、1本づつでは花火のように燃えるが、私の記憶では、高さ50㎝四方に限りなく散乱していた。
大人達は、トンネルの奥に入ると灯りがなくローソクを点け、箱を壊し続け入って行った。その中の大人の一人が、ローソクが短くなったと云うことで捨てたので、火薬に引火し、トンネルの奥から入口に向かって「火の玉」となって爆発し、 何も知らずに入口で遊んでいた子ども達が、「あっ」という間の出来事で大災害を受けた(午後3時まで事故は続いた)。大人達は、奥に逃げ込み、裏口に通じる抜け穴があり難を免れている。
現在、爆発現場付近には地蔵尊があるが、付近は雑草の中で整
備が進んでいません。
また、地蔵尊に行くには、柵がありその柵の扉が壊れていて、開閉が困難な状態です。 柵と扉の修理と、鍵の管理を明確にし、必要に応じ祈祷できるようお願いしたいと思います。
(『鎌倉市中央図書館近代史資料収集室 CPCの会』p 158)
子供たちのいたずらに端を発して、 多分、 信管が外されないままのものがあったのであろう、信管が暴発して、死者14名にも上る犠牲者を出すという大惨事が、昭和20年10月20日午後に発生。 死亡された14名は、 いずれも小学2年生から6年生ぐらいの年端もゆかない子供たちであった。 最後の一人などは、 目が潰れて見えなくなり、夕方穴から這い出て来て崖から海に落ちて溺れるという、 痛ましい話も伝えられている。
犠牲者14名の霊を祀る石造りの地蔵尊は、 もとは暴発事故現場近くにあったが、現在は離れた場所に安置され、遺族によって維持・管理されているようである。
次の資料は昨日の「逗子の歴史を学ぶ会」例会での出席者からのものです、
この事故に関する資料はまだありますが、事故の原因を巡っては「子どものいたずら(マッチを擦った)」と「大人がロウソクを捨てた」とあります。亡くなった子供の人数についても14、15、16人と記されている資料があります。併せて子供たちの霊を祀る地蔵尊に関して諸意見が交わされています。
「忘れてはならない」と思った時その思いを記録し、記憶者の記憶を頼り記録を探り痕跡を訪ね記録していく、それがSNS社会の記録として蓄積されていくでしょう。