今朝というより、今日昼近く目を覚ましても頭にズキズキが残っていまして、しばらく時間の感覚が抜けていました。
昨夜は俳句仲間と忘年会、9月の中学同級会以後の飲みタイムでアルコール分が抜けている臓物に過ぎたるビールと酒が入って酩酊、それでも自宅までは無事戻って、ブログをのぞいたら、「川柳を……」投句を促す一言にギクリと床を這い出して記憶を頼って二句送信、それが20時半頃ですから15時間くらい寝たのだー、普段3回ぐらいトイレに起きるのだが一回だけだった、熟睡出来ました。
さてそれがどう「未来論」に繋がるかはまず、これです、
忘年会の前の句会で、主催役の人(以前このブログで紹介した時
https://blog.goo.ne.jp/kaeru-23/e/50daf5a40a7ef0eaf6335dc94d761038
「主宰」と表記して指摘されました。俳句で主宰と呼ばれるのは結社の組織者でその結社の俳誌の責任者であることだとのこと)、ですので今回は主催役の水野さんからいただいた新しいカタチの俳誌「棒」創刊号です。私が「新しいカタチ」と勝手に判断したのは創刊だからではなく、上に書きましたように俳誌というのは結社の機関誌的なもののようです。「棒」の組織「棒の会」は結社ではないでしょう、「いろいろな俳句実験の場」ですから。
何を実験するか、「俳句の未来を考えていこうとする俳人の集団」ですから文学・文芸・詩としての俳句の有り様を自らの句と論考を通じて探究する作業を言うのでしょうか。
俳人の夏石番矢氏の『「俳句」百年の問い』(講談社学術文庫)は、子規の明治28年のものから番矢「キーワードから展開する俳句」(平成7)までの100年間32編が収録されています。私が以前桑原武夫の「第二芸術論」を知りたくてそこだけ読んでものです。今日開いてみて、子規以降だけでも俳句に対しの頭脳論理の働きを概観できました。第1編の子規の〝「美」をめざす俳句〟 と第32編の番矢「キーワードから展開する俳句」を読み比べてみてもこの100年間の意味が見えてくるかもしれません。
さてもう一つの「未来」は、
昨日の句会の会場は「鎌倉市市民活動センター」でしたが、そこでいただいたのが、「WOw!」という冊子で「鎌倉市市民活動センター20周年記念誌」です、写真は表紙の見開きページ。この一文に
「いまの私やあなたが、未来の地平に立ったとき、何を思うだろうか。」と、「道はつづくーー 持続可能な市民活動の未来へ、いま再び力強い一歩を!」の二行に「未来」が置かれています。
私たちの句会はこの市民活動センター利用登録団体の「かまくらシニアネット交流会」の一環です。その紹介ページを見ますと見出しに「パソコン伝道師を目指して!」とあります。記事中に「発足から13年、PCからスマホなどIT機器の多様化の波の中で……」とあり、これからの会活動の方向を「一般市民の方々に門戸を開く」等書かれています。
さて、こう書いてきて昨夜このページを開いた時に少し? と来た感じ、「パソコン伝道師」が……「IT機器の多様化の波の中」に置いて見ると「古い!」と気づきます。
俳句のことに戻りますが、先程の『……百年の間に』の中をめくっていましたら金子兜太の書かれたものがあり、そこに「まず俳句を作るとき感覚が先行します」が目につきました。長文のここだけを取り上げて感覚論をやればお叱りを受けるでしょうが、それを承知で言えば、私たちの活動での市民感覚の大切さだと思うのです。その感覚の根底に「未来志向」があります、展望のない場合それが「絶望」という未来像になるでしょう。
俳誌「棒」を借りて言えば展望という棒を手にすることが、未来に向かう人に必要なのです。行き先を探る棒、ときには障害物を除けるために、あるときには仲間同士の確認に、望遠鏡兼用の棒であれば行先を探る用にも使える……。
古い袋に新しい酒を盛る、は聖書の教えと反対だそうですが現実はこうなります。81年間余使い続けてきた古い頭脳に新しい感覚を入れるには、それを意識し「つぶやき」続けることでしょう。