kaeruのつぶやき

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手紙で 『資本論』 読み合わせ(1)

2023-01-26 13:28:46 | kaeruの『資本論』

友人Yさんとの「手紙で『資本論』読み合わせ」をはじめたことを昨日「つぶやき」ました。今日はそれへの返信で、手紙の下書き的なものを載せておきます。

 

Yさんへ、

「資本論」第一信読みました。相変わらずの読書力に敬意を表します。不破さんの『「資本論」全三部を読む』は各種の『資本論』への案内書のなかでは分かり易さは群を抜いていると思います。それにしてもあの大部な「『資本論』全三部」の理解の前提には、それを大きく大きく上回る『資本論』を全三部(12分冊)を読むことがあります、2002年の「代々木『資本論』ゼミナール」は一年間でそれをやってしまうことでした。とてもではないが私には不可能な難事業です。

確かにその数年前から始めて2017年秋まで読んできた『資本論』の通読中、『資本論』全冊と不破さんの『全三部を読む』の全冊も手元に置いていました。それなりに目を通して自分の説明分担のヶ所の該当部分は読み説明に役立てました。4人で進めた勉強会でしたから、大雑把に言って『4分の1資本論』でした。それでも最後のページを読み終えた時の達成感は今でも抜けていません。

達成感と共に『資本論』を「第一章」から逐次読み進めてきたことの効果というようなものを実感したのです。『資本論』を「はじめはむずかしい」という「始め」を、1960年代の宮川実先生の「資本論講座(第一部)」から、直近は不破さんの『全三部読む』まで何回も頭を絞った経緯が「良かった」という思いがありました。

それは「第三部」に入って諸現象を読み取る対象にした時、この現象の奥にあの「商品」や「価値形態」とか「貨幣やら資本」などが潜んでいることを見抜く目があったと感じたからです。「はじめ」を何回か読むことを通じて我が脳内に「顕微鏡や化学試薬」ではない「抽象力」が幾らかでも養われたのかという感慨がありました。

Yさんが手紙で自然科学と比較して「社会科学の分野では取組みがおくれている」と言われた「遅れ」とは、抽象力の会得に遅れがあるとか、その方面への意識的な努力に立ち遅れがあるということと思います。併せて重要なことは社会科学の独自の社会的位置です。『資本論 第1部』の「序言」でマルクスが経済学について述べている以下の言葉は、社会科学全体に通じることと考えます。

経済学の領域では、自由な科学的研究は、他のすべての領域におけるのと同じ敵に出会うだけではない。経済学が取り扱う素材の固有の性質が、自由な科学的研究に対して、人間の胸中のもっとも激しくもっとも狭小で最も厭うべき情念を、私的利害というフリアエを、戦場に呼び寄せる。(『資本論 第一部』第一分冊p14)

ここの部分を石川康宏先生の指摘を参考にしながら、解説的に記しておきます。

経済学は自然科学と違って、社会にある内部の対立や利害を明らかにしていく学問です。例えば労働者が資本家によって搾取されています、その内実は剰余価値の生産です、ということを明らかにすると……。

そんなことは資本主義の社会ではあり得ないのだ、労働者と資本家は相互に独立した契約関係であって対等な関係なのだ、と私的な利害が学問的に主張されます。

この後者の主張が一般的な世論としても浸透しているなかで、前者の論理を広げていくためには意識的な努力を重ねて行かねばなりません。その実践的取組みの根拠が、Yさんが強調している「運動の流れのなかで、すべての現実が有している肯定的理解は、変化=経過的側面=その否定を内包している」という認識です。運動の流れに身をおいてこそ、肯定的理解のなかからその変化に「否定的側面」を見出すことが可能であり、実践を通じての変化の促進が「否定」から「没落」への必然性に身をおいているという実感になるのです。

さらに書き加えられている「弁証法の批判的で革命的な本質がある」ということに同意するものです。その記述に日常生活で応えていく、その日常を意識におきながら「『資本論』のある日常」を心がけようと思います。

では、第二信をお待ちしてます。