kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

もうこんな時間だった、 のか!?

2023-02-12 20:17:53 | 時代の現場

タイトルは「つぶやき」の内容とクロスしてます。

夕食前に「つぶやき」準備を終わらせる、と思っていたが……、という事ですが、その気付きのなかに亡くなった2人のことが入っていたのです。

今日の「つぶやき」は昨日の分も含めてのことなので、当然増本一彦さんの遺志について触れます、するとこれも当然なのですが山本勝哉さんのことも……。それで二人が死の直前に「もうこんな時間になったのか」との思いにとらわれていたに違いない、と思いが飛んだのでした。

ですからタイトルに「のか!?」と余計なものがついているのですが、これは実感(あア、そういうことだったのか)でこう呟いていたのです。その時、自分の食事時刻に気づいたことと二人が人生の最終時に浮かんだであろう「つぶやき」が瞬時に重なって出てきたのです。

今夜の「つぶやき」は、

昨日紹介しました『増本一彦氏を偲んで』への私の追悼文で、文字起こしをしておきます。

知恵袋と土台石  

ーー故増本一彦氏から受け継ぐものーー

 天野 清司(4区市民連合・葉山町)

  亡くなった増本一彦氏の一周年に向けて、氏を偲びその思いを受け継ぐ集いと文集の発行の打合せが年金者組合の事務所で行われた際、いただいた組合の印刷物に“ 高齢者は社会の「知恵袋」” と大きく記されていました。その通りだ!と思いつつ、ならば高齢者が故人となった時、何になるのかとの思いが浮かびました。

 その人の遺したものが引き続き「知恵袋」であることには変わりありません。更に言えば「知恵袋」は袋にとどまらず、土台石でもあると思い至ったのです。それは増本氏が亡くなる前年の11月から12月にかけて神奈川革新懇に寄せた三つの文書を読むことによって得られた思いです。

 氏はこのなかで「市民連合」と「革新懇」について、ご自分の体験に基づいて書かれています。「市民連合」については、現在全国的に展開している「市民連合」はもとより、氏が日本共産党の国会議員または同候補として体験した1970年前後の「藤沢市民連合」。更に氏の終焉の地となった鎌倉市での70年代の正木革新市政の誕生とその後の革新市政をめぐる論争について触れておられます。氏の文書ではありませんが、1970年の鎌倉市長選において、神奈川県下ではじめて革新市長となった正木候補の公認団体は「鎌倉市民連合」でした。

 氏の身体と思想に刻み込まれたと思われるこの三つの「市民連合」への関わりの教訓は、氏の次の言葉に込められています。

〝 遺る余生を地元の運動に少しでもお役に立てればと、斉田氏をはじめ県革新懇の協力をいただいて、有志を募って『新革新懇』づくりを始めているのです〟

 氏がなぜ当該地域革新懇に「新」と名づけ、また行政区を跨いで構成するか、私は全国革新懇が今日の革新懇運動の課題として提示している「三つの任務」の “ ②「市民と野党の共闘」を土台に連合政権の実現に全力をあげる ” を記し、氏の思いに繋げるものです。これは全国革新懇40年に当たり政治学者の渡辺治氏が語られたことに呼応するものだと思います。(「渡辺氏インタビュー文」p28〜29「連合政権を作り支える地域、草の根の共闘の担う手に」)

 増本氏は、21年総選挙の神奈川県小選挙区18のうち4、12、13の3つの選挙区で共闘候補の勝利のため闘い勝利を体験しています。この体験もまた氏の見識を裏付けているのです。その見識を我が見識とし、我の活動の土台石として受け継がねばと思います。

少し書き足します。

ここには山本勝哉さんのことは触れてませんが「集い」の場で、増本さんと山本さんの家で、地域の革新懇再建のことを中心に話し込んだことを報告しました。

増本の亡くなる2ヶ月ほど前の2021 年12月の中程でした。その場で増本さんががんを患っていて月一で病院通いしていること、山本さんはそのことは知っていたようです、私は初耳でした。当時山本さんは週一の病院行き、私は3ヶ月に一度という割合でした。そんなことで話が途切れることもなく、4時間に及ぶ鼎談で「何をなすべきか」がはっきりしたのです。

増本さんの文中の「有志」に山本勝哉さんと天野清司の2人が入っていることは言うまでもありません。