2月8日の「つぶやき」です。今日他用のため「タキジ コロサレタ」に行けなかったのですが、
多喜二が遺したもう一つの文(ふみ=手紙)について、
田口瀧子宛 一九二五年三月二日/小樽
「闇があるから光がある」
そして闇から出てきた人こそ、一番ほんとうに光の有難さが分るんだ。世の中は幸福ばかりで満ちているものではないんだ。不幸というのが片方にあるから、幸福ってものがある。そこを忘れないでくれ。だから、俺たちが本当にいい生活をしようと思うなら、うんと苦しいことを味ってみなければならない。
瀧ちゃん達はイヤな生活をしている。然し、それでも決して将来の明るい生活を目当にすることを忘れないようにねえ。 そして苦しいこともその為めだ、と我慢をしてくれ。
僕は学校を出てからまだ二年にしかならない、だから金も別にない。瀧ちゃんを一日も早く出してやりたいと思っても、ただそれは思うだけのことでしかないんだ。 これはこの前の晩お話しした通りだ。然し僕は本当にこの強い愛をもっている。 安心してくれ。頼りないことだけれども、何時かこの愛で完全に瀧ちゃんを救ってみせる。 瀧ちゃんも悲しいこと、苦しいことがあったら、その度に僕のこの愛のことを思って、我慢し、苦しみ、悲しみに打ち勝ってくれ。
(次ページ略)
(1行略)
ではさようなら、返事を待っている。
私の最も愛している
瀧ちゃんへ
(1)これは悲惨な境遇にある恋人田口瀧子(タキ)への慰めと励ましの一文。後に多喜二はタキを「身請け」し、若竹町の自宅で一緒に暮らし始めた一九二六年六月七日の「日記」(『全集』第七巻所収)には、「この世の生活事実を考え、体験してきたら、矢張りこの世の中を見る態度が色々に分れる。人生はついに循環小数の中から出れない。闇があるから光がある、そして人は闇と光の中をグルグル廻って歩いている、四を三で割って行って、恰かも四が何時か立たないかと望んでいるかのように。けれどもやっぱり何時まで行っても、三三...... である」と書く。
(2) 小樽市入船町のそば屋(銘酒屋)「やまき屋」の女給の生活。 天狗山山麓にある「南廓」という遊廓の近くにある銘酒屋では私娼を置いており、田口タキもその一人だった。 タキは一九〇八年、小樽郊外の高島に生まれた。父が家業で失敗すると、室蘭の銘酒屋に身売りされ、二三年、小樽の「やまき屋」に転売されていた。多喜二は、二四年一〇月、美人との評判を聞き、友人らと「やまき屋」を訪れ、タキと知り合っていた。
(3)略
恋人にも恵まれて・・不遇な生涯ゆえに
幸せです。
生きて針の筵に寝かされる長寿より・・
人の世界観は それぞれです。
精一杯の人生だったのでしょう。
私の小父たち四人も戦争で若くして散りました
小説家でもなく・・いろんな思いを残しながら
みんな、私のために早世してくれたと信じています
我が身の肉親として、その身体は無くても我が身を、
我が心をつくっていることは疑いないことです。小林
多喜二の死の事実に対する理解の深まりと合わせ、我
が心身に何らかの形になっていると思うのです。そし
てそれへの理解の深まりに応じて、彼の痛みと痛みを
与え彼を死に至らしめた暴力の正体への認識が深まる
ように思います。