花の様なる秀頼様を、鬼のやうなる真田がつれて、退きものいたよ加護島ヘ
手元にある『真田幸村』(小林計一郎著 新人物往来社 昭和54年発行)にこんなことが書かれています。
《 幸村が秀頼に随行して薩摩へ落ちのびたという噂は早くからあったらしく、「花の様なる秀頼様を、鬼のやうなる真田がつれて、退きものいたよ加護島ヘ」と京童部(きょうわらべ)に歌われたという。平戸商館リチャルド・コックスが、翌元和二年(1616)二月、英国東インド会社に送った手紙に「ある者は、彼(秀頼)が逃れて薩摩あるいは琉球にいると信じています。」と書いている。
《 さて、大阪落城後、鹿児島の南一里半ほどの谷山村(いまの谷山市)へ、どこからともなく浪人が来て住みついた。島津氏から居宅を造り与え、日常の費用も与えて、何不自由ないようにしておいた。この浪人、酒が好きで、いつも酔っぱらい、髪を乱し、あらぬことを口走って、あちこちふらついて歩いていたが、領主から特別に保護されているのだから、誰も危害を加えなかった。同じころ、薩摩の浄門ガ嶽の麓にも、風来の山伏が住みつき、また加治木浦(加治木町)にも浪人が来住して、この三人は時々打ちつれていることがあった。谷山にいたのが秀頼、山伏は真田幸村、加治木の浪人は木村重成で、秀頼の子孫は木下姓を称し、重成の子孫は木村姓を称しているという (『採要録』)。後藤又兵衛・薄田隼人なども薩摩に逃げたという。》
《 『真田三代記』には、幸村は薩摩へ逃げた翌年、長年の辛苦がたたって何度も血をはき、秀頼らの手厚い看護のなかで死んだという劇的な話になっている。》
話として大変面白いです。源義経が生きのびて大陸に渡りギンギスカンになったという話に類することでしょう。鹿児島の地名も出てきてもっともらしいのが更に面白くしてます。「てんがらもんラジオ」で向井さんから話を聞けるといいのですが。
真田幸村お好きなんですか。
僕も歴史が好きで、大河ドラマはよく見ます。
「天地人」の真田幸村はよかったですね!
来年の「真田丸」も楽しみにしています、
よろしくお願いいたします!
上田で育ったもので特に幸村には関心があります。とはいえ知らないことばかりですので、この大河ドラマは期待してます。これからも覗いて下さい。
万一のために近くに黒子として働いていた
あながち とっぴな話でもなく、話を楽しくしてくれれば・・
少々の歴史捏造は書物の上では許される
でも面白おかしく興味深くしてくださること
大歓迎です・・
大坂冬の陣、夏の陣で家康が最も恐れた武将の一人でしょう、影武者も何人もいたに違いありません。