青木文教は明治19年(1886)滋賀県のお寺の子供に生まれ、佛教大学(現龍谷大)在学中に大谷光瑞に認められ、仏跡調査にインドなどに派遣されます。
本書は1912年から3年余、チベットに留学した際の見聞をまとめたもので、ヘディンより数年後になりますが、河口慧海と同じく首都ラサに至りポタラ宮に入っています。
当時はダライ・ラマ13世の冶世でしたが清国の干渉を受けて法王はインドで亡命していました。文教はインドで法王に謁見し、チベットの交換留学生を日本に連れ帰ることになります。しかし1912年、清国は辛亥革命で崩壊し(中華民国誕生)、チベットの留学生を帰国させるのに付き添って入国を許可されます。
へディンの書物では挿し絵でしたが、本書には多くの貴重な写真が挿入されています。写真は「拉薩の宮殿」と題されたポタラ宮の写真。
これは変愚院撮影のポタラ宮(2006年5月)の写真です。上と見比べてください。
「シガツェ城・サマルブフェ(シガツェにあり拉薩のポタラ宮を模して建造したと伝えられる)」という写真説明がついています。
これはヘディンの絵で「シガツェの市庁と地方自治庁舎」
上のシガツェ城と同じものです。ヘディンの正確な描写力に驚きます。
ここでラサとシガツェ、ダライ・ラマとタシ・ラマの関係を整理しておきます。
まずラサはご存知の通りチベット文化圏の中心で、ダライラマ冶政時代には政治の中心でもあったところです。
シガツェは「西蔵遊記」では次のように紹介されています。
西蔵第二の都会で、ツァン州即ち後蔵の首府として古来、宗教、軍事および商業の中心地となっている。
このシガツェの支配者がタシ・ルンポ(前項「チベット遠征」参照)に居住する
タシラマですが「西蔵遊記」によると
外人はタシ・ラマ(漢字ですが、このBLOGでは以下カタカナで表記します)と呼んでいるが、西蔵人はこれをキャムグン・パンチェン・リンポチェともまたは単にパンチェン・リンポチェとも称える。蓋し「キャムグン」とは救世主の意で、「パンチェン」とは大パンディト(大博学師)とて梵語と蔵語との合詞、「リンポチェ」とは「リンポチェ」とは大尊者の義で、通訳すれば大救世主パンチェン尊者となる。
タシラマといえばダライラマとともに西蔵における二大活仏であることは世人の熟知せるところである。どちらもラマ教徒の崇信措かぬ大法王であるが、西蔵王権の主権はダライラマに在って、タシラマは一部の領土権を有するに過ぎない。
西蔵教徒の信仰によればダライラマは観音菩薩の化身でタシラマは阿弥陀仏の権化である。観音は阿弥陀仏の分身(慈悲の化現)であるから、道理の上からすればタシラマはダライラマの上に位する訳であるが、西蔵は観音菩薩の教化すべき刹土であるがためか観音の化身が主人公となり、阿弥陀の権化が客分たるの観があって、昔その主人公が国の主権を握っていた風が今日まで伝わったものである。
本書の構造は入蔵記、西蔵事情、出蔵記の三部構成ですが、慧海と異なるのは堂々と?チベットに入国しているので、慧海の知り得なかったチベットの事情・情報も入手できたことです。ついでですが大正3年に二度目にチベット入りした慧海と出会っています。住居も「予とは隣同然の近いところから自然良く往来し」たそうです。
今ではタシラマは一般的にパンツェンラマと呼ばれていますが、現在のパンチェン・ラマ十一世は、ダライ・ラマ十四世認定と中国政府認定の二人が存在するという、奇妙な状況になっています。