ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

ヒマラヤ・チベット縦横無尽

2010-05-08 11:49:59 | チベット関連本


2002年の年頭、カナダ在住の登山家・加藤幸彦さんからメールを頂きました。
加藤さんは1964年、ヒマラヤの未踏峰ギャチュンカン(7952m)に登頂した名クライマーで、日本山岳会の大先輩、カナダ山岳会会員でもあります。
たまたま変愚院の「ペンギン夫婦お山歩日記」のうちの「カナディアン・ロッキーの花」がお目にとまり、メールを頂いたのがきっかけで、加藤さんのHP「ドン加藤の世界」にもリンクして頂いていました。
メールは「友人のカメラマン・東野君が本をだした。俺のことも出ているので良かったら読んでみてくれ」という内容でした。

著者・東野良(ひがしのりょう)さんは、宮城県生まれでNHKの山岳カメラマン。20年にわたる数多くのNHK山岳番組撮影を通じての山と人との出会いが綴られています。

ドンさん(若い頃はドンドン先に登っていくのでこの渾名がついたとか…)が登場するのは、1996年のチョモラリ(7326m)。当時63歳で、7000m峰に登った日本人登山者の最高齢記録となりました。この模様は「白き天女の峰・チョモラリに挑む」というタイトルで放映されています。

チベット関連ではこの本の初めの章、1991~2年のナムチャ・バルワ(7782m)で、そのご変愚院夫婦が大変お世話になる方が登場します。91年は隊員の遭難死に加え、上部での大流雪で断念。翌年の再挑戦で日本中国両国隊員11名を登頂に導いた、重廣恒夫さん(現・日本山岳会関西支部長)です。


2006「マナスル三山展望トレッキング」バグルンパニのテント場で。重廣隊長と♀ペン

このトレッキングの時には、毎夕食後、大テントの中でナムチャバルワを始め、1973年のエベレスト南西壁、1977年のK2(第二登)、1980年の北壁からチョモランマ(エベレスト)登頂、1988年チョモランマ交差縦走など、数々の体験談をお聞きすることが出来ました。私たち夫婦にとって、本当に貴重な想い出となりました。

さて、本に帰ります。チベット関連ではカイラス、チャンタンなど数々の撮影行。またネパールとの国境の町プランでは「消えた菩薩の微笑み」と題して、ここでも文革の際の破壊の跡が伝えられています。

この本の凄いところは、何十キロも及ぶ重い機材を登山者と同じ高度まで運び上げ、時には風雪の中でカメラを回す苦労はあまり語られず、「カメラマンは映像を撮ってなんぼの世界と思っていた」と淡々と記されていることです。

最後に「涙に映ったエベレスト-女優たちのヒマラヤ」の章について触れておきます。
「ヒマラヤトレッキング・シリーズ」の最終話は若村麻由美さんが、世界最高峰・エベレストを間近にみるカラパタール(5545m)に登る映像でした(1998年)。

このシリーズはずっと熱心に見てきましたが、最後に山頂に立った若村さんの顔がアップになり涙が流れるのを見て、「あれ、ヤラセかな」と思ったものです。
東野さんも、その後彼女の芝居を見て…

「もしかしたら」、あのロブチエの食欲がないといったときの悲しげな表情、途中の登りでの苦しげな姿、そして頂上での感動の涙…。あれらすべてが芝居ではなかったのか。
 私は、初めてお会いした時「報道カメラマンですから演技は撮れません。自然体でいきましょう」とお願いしたのだが、これは何度も言うようだが、やはり演技を本職とする女優さんにはたいへん失礼なもの言いだったのではないか。…


しかし、二年あまりたって若村さんから次のような手紙が届きます。
「〈花だより〉
果てしない紺碧の空  ヒマラヤの純白の氷河
熟い太陽 冷たい風
エベレストを望むカラパタール5545mの頂点に達した瞬間
涙が溢れ 生きているしあわせに 震えた
『シンプルに 払らしく 自分の役目を果たす』と心に決めた
                     若村麻由美。


これを読んだ東野さんは
ヒマラヤには、女優としてだけてなく、一人の人間としての心を真実動かさずにはおかない光と風があったのだ。あの涙は芝居ではなくほんものだった。疑った自分にまたまた赤面である。


カラパタールからのエベレスト(中央)1999.11.

この番組を見た翌年11月、私たち夫婦はカラパタールに向かいました。心のどこかに「山にはシロウトに近い女優さんでも登れたんやから…」という気持ちがあったことは否めません。なんという、思い上がった不遜な考えだったのかと、それこそ赤面の至りです。