ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

私の関西百山(97)氷ノ山

2014-11-28 10:56:57 | 私の関西百山

 

97 氷ノ山(1,510m)

(ひょうのせん)兵庫県養父市と鳥取の若桜町をまたぐ、中国山地では大山につぐ高峰である。ブンマワシコース、氷ノ山越えコース、仙谷コース、二の丸コースなどがある。下記に記した福定からのコースは、現在では頂上に避難小屋が新設されるなど、かなり様子が変わっている。
 
始めて氷ノ山に登ったのは1960年2月28日、当時、母校のS高校で実習助手をしていた私は先輩教員4人と、これも初めてのスキーツァーで東尾根から氷ノ山~鉢伏山(1,221m)を目指した。東尾根の登りは快適。千本杉ヒュッテは殆ど雪で埋もれていた。ここから氷ノ山頂上まではシールを利して簡単に登る。
 鉢伏への稜線は案外に長く痩せていて、途中で二度スリップ。よくもスキーを流さなかったものだ。すっかりバテ気味になる。横滑りの練習場みたいな斜面の連続でようやく鉢伏のゲレンデヘ出たと思った途端、腐った雪の中へ突っ込んで、左膝と足首のニヵ所を捻挫。なんとか頑張って大久保へ下った。
 朝7時前に宿を出て19時まで、12時間行動だった。当時のS高山岳部は公立校ながら大阪府代表で全国大会に出場するほどの実力校で、これには先輩でもあるY先生の力が大きかった。私も顧問の一人に加えて頂いて、休日を待ち兼ねて山へ向かっていた。
 
 
1961年の冬山合宿は前年のスキーで回ったコースを周回する予定だった。元旦から大久保でスキーをしながら後輩たちが来るのを待って、3日午後から福定へ下り山に入る。深雪にワカンを付けて登るが東尾根の取り付きが分からず、大谷ヒュッテの近くで幕営。
 
 
翌4日は雨で明けたが、苦労しながら尾根の上に出て昼食。風雪が強まる。ここから東尾根の単調な登り。ときどき雪が止み、鉢伏辺りの稜線が望まれる。寒さと疲労でクタクタになった頃、ようやく千本杉に着く。ヒュッテの中でテントを二つ合わせに張る。
 
5日、ガスの中を頂上に向かう。大した苦労もなく頂上を越し、氷ノ山越えで昼食。1,175mのピークをからみ、急斜面の難場をトラパースし終えた頃、冬の日は西に沈み、右下方に大久保の灯りが手招きするように近い。スキーコースの標識を見つけたが、谷が深く切れ込んでいるので夜の下降を諦めて、鞍部近くにテントを張る。
 
 
6日、小さい谷をいくつか越し、偵察を繰り返しながらも最大傾斜線沿いに下る。下るにつれて雪は重くなり、空腹にラッセルがこたえる。去年通ったスキーのルートより、かなり西寄りで牧場のスキー小屋に出た。後で知ったが大ナルという地点からの難コースだった。
 
 
昼前ようやく大久保に帰る。GPSやケイタイのない時代で宿の主人は救援隊の心配までして下さっていた。翌1962年も同じ日程、同じ場所で合宿したが、この年は天候も良く無事に行動を終えた。その4月、私は大阪市の高校教員となり、赴任した高校の山岳部や地域の仲間たちと、その後もスキーやハイキングで何度もこの宿のお世話になった。