9.柳里恭の墓(大和郡山市外川町)
柳澤里恭は江戸中期に柳澤家に仕え、二千五百石の大寄合の重職にあった武士です。父・保格は柳澤姓を名乗ることを許された重臣で、里恭(さととも)はその次男。後に中国風に「りゅうりきょう」を名乗りました。いくつかの号のうち「淇園」がよく知られています。武芸百般に通じ、人の師となることが出来た項目は16あったといいます。
国学では本居宣長、上田秋成と並び、絵画では池大雅の師匠でした。図は東京国立博物館蔵の淇園筆・関羽像(Wikipedia・public domain)
まさに文武両道の天才ですが、武者修行の途中、郡山に立ち寄った宮本武蔵と郡山城で会見したという伝説があります。武蔵は「貴殿がこのように剣の達人とは」と感嘆すると、淇園は「貴殿の絵のお腕前こそ」とお互いに褒めあったといいますが…武蔵は正保2年(1645)に没し、淇園は元禄16年(1703)生まれですから有り得ない話です。里恭の墓はわが家のすぐ近く、発志禅院にあります。