庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

カミナリ

2011-06-21 23:21:00 | 自然
昨日は深夜に梅雨明け時を思わせる雷が響き、青白い閃光が南の窓を何度も照らした。近くの雷雲はヘソが飛び出すくらい浮「が、遠くの雷は台風に似て心を躍らせるものがある。このカミナリ見物のおかげで昨夜は2時まで寝れなかった。 

私が雷の魅力に目覚めたのは、学生時代の初年に埼玉・上福岡で下宿生活を始めた夏のことで、雷の名所とされる宇都宮が近いということもあったのだろう、梅雨明けが近づく7月になると、愛媛の田舎では見たこともないような激しいのが、そこら中に落ちるのである。その雷鳴と雷光の壮大なこと・・・やはり二階の、南に窓が開けた6畳間から、圧涛Iな大自然の驚異とでもいうべきものを、飽きることなく眺めていたのを懐かしく思い出す。 

雷といえば、18世紀アメリカの偉人、ベンジャミン・フランクリンを忘れてはいけない。彼は実に多才な人物だったが、「落雷は罪を犯した人間に対する神の天罰である」という、当時キリスト教的世界の常識をものともせず、大嵐の日に麻紐で揚げたカイトを使って、雷の本体は電気であるということを実験証明した。Usdollar100fronts1024pix100kb.jpg

彼が単なる奇人変人の類でないことはその事跡を見れば明らかで、その行為がどれだけ危険で、周到な準備と勇気を要するものであったかは想像に余りある。私の興味は、彼が数億ボルト、数万アンペアの一撃に対峙した、ということだけではない。当時の常識、つまり現在では想像もできないくらい大きかった教会の権威や、それに追従する大多数の人々の批難や圧力に、あくまで合理的・科学的姿勢で対峙したということである。 

私の知るところ、全て人類の歴史の進展は、こういう奇抜な人物の辛苦を伴う「非常識」から始まり、それがやがて当たり前の「常識」となって世界を満たすようになる。これが、多勢よりも無勢、強者よりも弱者、集団よりも個人に敬意を払うべき所以(ゆえん)である。 

・久々の別府は実に爽快な初夏の西風、19㎡、53km


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする