ただ、カイトサーフィンの不思議の一つは、この歳になっても疲れを明くる日まで持ち越すことがほとんどないということだ。それがどうしてなのか・・・幾つか思い当たる節があるのでまた近いうちに整理してみる。何はともあれ、いろんな意味で、これほど刺激的かつ魅力的な海のスメ[ツは稀(まれ)かもしれない。
明日の風はもっと西寄りに振れて、今日より幾分は走りやすいものになるだろう。
昨日書いたT君の話には、國弘正雄と関係する導入部分がある。ことのついでに、UPしておく。
國弘先生のことを書こうとすると、どうしてもT君との思い出を辿らざるを得なくなる。T君とは、同郷の中学の2学年先輩で、私が1年坊主の時に理科部の部長や生徒会長をしていた人だ。若い時の森進一にそっくりで、その聡明で温和な性格は校内の誰にも好かれていた。この年代の2年先輩というと、はるか高い場所にいる大人のように見えるものだが、彼の柔らかで気さくな人柄には、ほとんど年齢差を感じさせないものがあった。1年生の2学期から理科部に入部して、私はすぐに彼のことを「T君」と呼ぶようになった。
理科部では全くの自由が支配していた。各自適当な自由研究の成果を思いついた時にまとめて、理科新聞を発行することのほかに特別な活動をしていたわけではない。当時の新聞はガリ版刷りで、私はピンホールカメラの原理を図入りで解説したりしたのを覚えている。彼が卒業した後、2年生の私が部長を引き継ぐことになったのもその自由の空気のためで、要するに誰がリーダーになっても部活動の内容には何も影響しなかったということだ。夏休みのある日、山を二つ隔てた彼の家に泊まりに行った夜、近くの小学校の天体望遠鏡を校庭に引っ張り出して、初めて土星の輪を見た時の感動を忘れることはない。
T君とは取り止めもない未来のことや他愛のない悩みごとなど実に様々な話をしたが、私は彼と一緒にいること自体が嬉しかったのだ。1年足らずのうちに、彼は海を隔てた街の進学校に進み、2年後に私も後に続いた。もちろんこの間も暇を見つけては彼の家に遊びに行った。彼とは英語が好きな点でも嗜好が一致していて、この頃すでに、彼は大学に進んだら是非とも留学したいという話をしていた。そして実際、岡山大学の理学部に進んだ後、サンケイ・スカラシップに合格してアメリカの東海岸に1年間留学することになる。
T君が高校時代に心酔したのが、同時通訳者で当時テレビやラジオの英語教育番組でも大活躍していた國弘正雄だった。彼は尊敬する國弘先生の書物を何冊か熟読してその感想文を送った。間もなく、先生の丁寧な返答が著書数冊と共にT君の元に届いた。「立派な人物とはこういう人のことを言うのだね・・・」それを聞いて、私もその通りだと思った。
その後、私が大学進学を考えるようになって、国際商科大学(現在の東京国際大学)を有力な選択枝にしたのは、この大学で國弘先生が国際関係論を担当していたからだった。そしてやがて、私は学生生活最初の1年間をこの大学で過ごすことになる。当時の先生はまだ40代半ばで意気溌剌としていた。派手な柄のまぶしいようなネクタイをしめた彼が教場に颯爽と登場すると、あたりの空気がピンと引き締まった。あの歯切れの良い早口で一時間半とうとうと話し終えるとさっと姿を消す。やはり随分お忙しいのだろうな・・・50人に満たない小さな教室の、たいがい一番前の席に座っていた私は、ステージに立つスター歌手を見るような気持ちで彼の姿を見ていた。世界中に広がっていたはずのその講義の細部を、今ほとんど覚えていないのは奇妙なことだが、人はその話の内容だけから影響を受けるのではない。
結局、ある理由で、私はこの暖かい大学を一年で去り、明治大学に籍を移すことになる。当時の担当教授にはずいぶんご心配をかけ、不義理を残したままでいる。
國弘先生は、後に政治の世界にも関係するようになり参議院議員にもなって更に活動の場を広げられた。終始、平和と市民の側に立つリベラルな立場を堅持された。ただ、何年か前にテレビでお姿を拝見した時は随分痩せられて、様々なご苦労の痕が色濃く残っているように見受けられた。現在は政治からも身を引き、英国の客員教授や明治大学の軍縮平和研究所特別顧問もされている。ちょっと不思議な縁だと勝手に思っている。ともかくお元気で長生きしていただきたい。
さて、T君の話であるが、その後の彼について語るには、私の心の準備はまだ整っていない。その時が来たら、また書きたい。