庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

瀬戸の風波

2012-11-01 20:07:00 | 創作


大海も 磯もとどろも なけれども 塩屋に騒ぐ 瀬戸の風波

おおうみも いそもとどろも ないけれど しおやにさわぐ せとのかざなみ

今日の塩屋の海を見て、鎌倉幕府三代目、源実朝の「大海の磯もとどろによする波われてくだけて裂けて散るかも」を少しパロってはみたが、まちがいなく、正岡子規先生に怒られるだろう。IMGP0667-s.jpg

子規は実朝を次のように評する。「・・・実朝といふ人は三十にも足らで、いざこれからといふ処にてあへなき最期を遂げられ誠に残念致し候。あの人をして今十年も活(い)かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ不申候。とにかくに第一流の歌人と存(ぞんじ)候。強(あなが)ち人丸(ひとまろ)・赤人(あかひと)の余唾(よだ)を舐(ねぶ)るでもなく、固(もと)より貫之(つらゆき)・定家(ていか)の糟粕(そうはく)をしやぶるでもなく、自己の本領屹然(きつぜん)として山岳(さんがく)と高きを争ひ日月と光を競ふ処、実に畏(おそ)るべく尊むべく、覚えず膝(ひざ)を屈するの思ひ有之(これあり)候。古来凡庸の人と評し来りしは必ず誤(あやまり)なるべく、北条氏を憚(はばか)りて韜晦(とうかい)せし人か、さらずば大器晩成の人なりしかと覚え候。人の上に立つ人にて文学技撃ノ達したらん者は、人間としては下等の地にをるが通例なれども、実朝は全く例外の人に相違無之(これなく)候。何故と申すに実朝の歌はただ器用といふのではなく、力量あり見識あり威勢あり、時流に染まず世間に媚(こ)びざる処、例の物数奇(ものずき)連中や死に歌よみの公卿(くげ)たちととても同日には論じがたく、人間として立派な見識のある人間ならでは、実朝の歌の如き力ある歌は詠(よ)みいでられまじく候。・・・」  『歌詠み与うる書』の冒頭。

ここで子規が「人の上に立つ人にて文学技撃ノ達したらん者は、人間としては下等の地にをるが通例(権力や社会的地位を持ち、ある程度の文学や件p・技術を心得た人間は、多くの場合、傲慢になり人格としては下劣の類となる※寛太郎的解釈)と断っているあたり、私は子規その人の偉大さを直感する。

若干26歳で暗殺された実朝については、加藤周一も、彼の最期の遺言的映像『それだけではない』で繰り返し語っていた。その和歌の偉大さは、今のところ私の理解の向こう側にある。しかしそれらは、おそらく長い日本の詩歌の歴史の中で、桁外れに優れた虹彩を放っているのにちがいない。

ただ、実朝の来歴・事跡を知るにつれ、色々と興味深い事々が浮かび上がってきて、私のような歴史音痴でも、どんどん深みにはまりそうになる。例えば、彼が渡宋を計画するに至った経緯に、こういうのがある。

彼が21歳、東大寺大仏の再建を行った宋人の僧が彼に会うために鎌倉まで参上して御所で対面した時、実朝を三度拝んで泣いた。実朝が不審に思って聞くと、僧は「あなたは、昔、宋朝の医王山(薬草がたくさん採れる山からの命名らしい)の長老であり、私はその時の門弟の一人であった」と述べる。それは、実朝が5年ほど前に見た夢に現れた高僧が語った内容と同じであり、実朝はそれを他言したことはなかった・・・というような話である。

「転生輪廻」云々の思想について、私は「神の存在」云々と同様、とりあえず証明不可能、つまり「在るかもしれないし無いかもしれない」類の問題として、解答を保留してある。 

については、その存在を前提とした時代と、それを消し去った時代が残っているから、話はいくぶん簡単になる。あると考えたらとうなるか、ないと考えたらどうなるか・・・ということが分かりやすいという意味で。しかし、転生輪廻については、かなり複雑でややこしいことになるだろう。 

どんなにややこしいことになるかは、複雑なことを書くのが、めんどくさくない時に書くことになるだろう。私なりに想うところはある。いずれにしてももしこれが事実であれば、非常に面白いことになることになるな・・・とは思っている。