庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

有難迷惑 (3)

2011-07-06 01:05:00 | 海と風
ずいぶん前に「有難迷惑」の(2)まで書いた。起承転結の「起」の部分だ。今回からようやく「承」に入る。

改めて一般的に使われている意味を確かめようと思って、小学館の統合辞書で「有難迷惑」を引いてみたら、国語辞書には無いのに和英辞書には幾つかの用例と共に載っていた。少なくとも英語圏には同じような煩わしさを抱える人がいるらしい。いわく"unwelcome favour"、「歓迎されない好意」・・・最も使えそうな文は、"Thank you for nothing."「有り難いけど何の用にもならないよ」・・・だそうな。私は聞いたことも使ったこともないが、ハッキリものを言う英米人なら時々言いそうなことだ。

当人には「何の用にもならない」どころか「迷惑なばかり」の他人(ひと)の好意は、多くの社会人が日常しばしば遭遇することで、そう珍しいことではない。頼みもしないのに勝手にモノやサービスを与えようとする電話勧誘や訪問販売の類(たぐい)は最も分かりやすい有難迷惑だろう。もっともその動機が「好意」かどうかは大いに怪しいので、私はたいがいの場合、完全に無視する。

これだけ情報化が進んでいる時代だ。自分が必要とするものは自分の方からアプローチする方法を全く知らない人間など、極めて稀(まれ)なことは充分分かっているはずなのに、あんなバカげたことに大事な時間と労力を使わせる経営者はバカに大を付けてあげた方が良い。

ところが、これら日常世界の出来事と似たようなことは、かなり非日常的な「風読みの世界」でもしばしば起こり、まだその「社会的現象の基本構造」に理解が及んでなかった若い頃の私は、まったく余計なことをする人たちに腹を立てて噛み付くことさえあった。

その基本構造の本質は、要するに「無知」にあり、未だ社会的認知度の低い(多くの人が知らない)何かをする人間が、たいがい似たような経験をするのは、当然といえば当然のことだった。少しシャレた言葉を使えば、「あらゆる分野のパイオニアの宿命」と言っても良いだろう。

その一例は、パラグライダーが今ほど多くの人に知られていない頃のことだ。変な形をした飛行物体に人がぶら下がりながら山の林に降下するのを見かけた人がビックリしたらしく、「飛行機みたいなものが墜落した!」と警察や消防に救助通報をした。これはパラグライダーの世界ではよくある「ツリーランディング」で、これ自体で怪我をすることは自転車でこけて気絶するより難しい。高い樹から安全に降りる技術や機体の回収方法などは、その技能の初歩として一人前のパイロットはみな身に付けている。しかし、そんなことは何も知らない地元の住人が、これを「墜落事故」だと思ってしまったらしい。

私が木の上のサルになったよう気分で、のんびり機体の回収をしていたら、間もなく、ご苦労にも消防所の人たちが数人、息を切らしながら急な山の斜面を登ってきた。「お??い、大丈夫か??!」私の姿を認めても何も出来ず、何度も大声をあげる彼らに、まだ30代半ばで血の気の多かった私は少々イラついて「大丈夫なのは見たら分かるだろう!こっちに用はないから帰れ!」・・・と、まあ今の私ならまずしない無慈悲な言い方で追い帰した。大いにガッカリした彼らは、帰り際に「降りたら警察に寄って事後報告をするように・・・」などと言い残したが、こちらが頼んだわけでもないのに、そんな面唐ュさいことをしなければならない義理はない。

国民の生命と財産を守るために、国民の税金で作っている警察や消防の組織制度は、国民から要請があればそれに応えるのが当然の職務義務で、この場合も当然のことを当然行ったに過ぎない。また、何も知らずに事故だと思い込んで通報した親切な人をとがめる理由もない。単なる「無知」が、私も含めて、それぞれの立場の人々の貴重な時間と労力と多少の税の浪費を招いた・・・という事実だけが残る。

同様のできごとは当然、まだまだ知る人の少ないカイトサーフィンにもある。ただ空と違って海の風読みスメ[ツは人目につく環境で行うことが多いから、その機会も多くなるのだろう。この4年ほどの間に、私は3回通報されて、一度などは海上保安庁のヘリが飛んで来たりしたこともあった。基本構造はパラの場合と同様。まったくご苦労なことだ。ただ、たぶん親切な通報者の方々には、とりあえず、もう少し落ち着いてじっくり事の成り行きを観察してから、ほんとうに必要なときに警察なり消防なり海保なりが活躍できる場を与えるように・・・と願っておきたい。



粟井 (サマーブリーズ)

2011-07-05 17:49:00 | 海と風
心地良い南西風だった。F君から別府の強風情報が入ったが、途中の粟井に寄ったら19??でジャスト・・・といっても私の19は風速4m辺りから8m辺りまでは楽しく扱え、ただ走るだけなら10m近くまで使える、かなり稀(まれ)なカイトだ。適性風は?・・・と聞かれるとちょっと困る。今日は5~6m。32km、ユッタリ走ったり飛んだりしておしまい。フロントラインの付け根がだいぶ擦り切れて心細い状態になっていたので、間もなく切れる前に先手を打って、この部分だけパワーライン仕様にした。

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南アフリカ (4)

2011-07-05 11:27:00 | 追憶

なるほど、記憶は連鎖する。競技中のシーンをあれこれ思い出しているうちに、とうに忘れ去ったと思っていた当時の出来事の、しかもどうでもよいような事実の細部が蘇ってくる。

四十を超えたいい壮年が、初日の歓迎パーティーでフラフラと踊り狂ったことや、なんだかウマのあったスタッフの大男と肩を抱き合って写真を撮ったことや、まだ少年の面影を残していたA君がエアフィールドの飼い犬のキンタマを悪戯でデコピンしてキャンと言わせ周囲をビックリさせたこと・・・などなど、まったく他愛のない出来事が次々と脳裏に浮かび上がってくる。

PPGの選手たちの「姿勢」ついては、フランスチームの面々が必要以上の英語を決して使おうとしなかったということの他に、特に書くべきことはない。PPGの競技の歴史は当時まだ始まったばかりだったし、私の「世界の飛行家」への関心は、どちらかというとマイクロライトに関わる人たちに向けられていた。

後で分かったことだが、彼らの中には、後にトライク(ハンググライダーにエンジンとコックピットや車輪を付けたようなもの)でアフリカ大陸縦断という冒険飛行を達成したイギリス人のマイク・ブライスもいた。今は名前が出てこないが、10年ほど前に複座型のトライクで世界一周を成し遂げたのもイギリス人だった。(彼らは一種の超法規的措置で日本の空港も使った。ひょっとしたら彼らも当時イギリスチームのメンバーだった可能性がある)

松山と広島を隔てる瀬戸内程度の距離しかないにもかかわらず(だからでもあるが)、600年前の百年戦争以来、イギリス人とフランス人の競争意識は、他に例を見つけるのが難しいくらい激しいものがあり、近年はだいぶ和らいできたところがあるにしても、フランスチームがイギリスチームの言語である英語を喜んで使おうとしなかったのには、それなりの歴史と理由があるのだ。近代というトンデモナイ時代の大勢を作り出した2つの支柱・・・「市民革命」はフランスが筆頭をなし、「産業革命」はイギリスに始まる。

それにしても、マイクロライト・イギリスチームの「姿勢」には一種の「落ち着き」の空気が、フランスチームのそれには一種の「気品」の空気が漂っていた。これも自由の精神を本質とする航空の歴史の所産か・・・或いは、あるものごとに、自ら生命(いのち)を賭けながら取り組んだことのある人間のみが持つ、あの特有の雰囲気に由来するものか・・・。

私が数ある航空界の中でも特にこの種類に興味を持つ理由は、小はセスナから大はジャンボジェットや宇宙船に至るまで、現代航空の歴史の原点がここにあるからだ。それは、ライト兄弟が初めて動力飛行を成功させたとされる「ライトフライヤー」の外観や仕様を見ればすぐに分かる。飛行重量にしても使用動力にしても、現在の舵面操縦型マイクロライトよりもはるかに頼りないものである。彼らはもともと自転車屋さんで、20世紀初頭、前世紀にドイツのオットー・リリエンタールなどによって、着実に蓄積された滑空データを基にしながら、数々の失敗の山の上に、あの機体を作り上げたのだった。

ある夕食会の時、たまたま隣のテーブルに座っていた私は、フランスチームの皆さんに声をかけた。下手な英語よりもはるかに下手なフランス語だからどこまで通じたか分からない。今になって思えば、フランス人には日本びいきも多いはずだから日本語で行けば良かったのかなぁ・・・と反省したりもするが、ともかく、何でもいいから一言でも言葉を交わせたかったのだ。

私が「こんばんは、私はフランス語をちょっとだけ話します」などと意味のない言葉を投げると、彼らは「オー^^!」と言ったのみで、それ以上の何を話したかを全く覚えていないのは、もちろんアフリカ風邪とアルコールのせいだけではない。



南アフリカ (3)

2011-07-04 21:02:00 | 追憶

日々の競技内容は、その日の朝の気象状況を観て、主催者側が決める。PPGの競技は基本的にパラグライダーのそれを踏襲してはいたが、動力飛行ならではのものもあり、それらがミックスされたものもある。

我々も含めて海外の選手たちのほとんどは、もともとパラグライダーの経験者だったけれども、中にはソアリング技術に拙(つたな)い人もいた。滑空の世界では当たり前の、サーマルを使った高度獲得などの技術は、プロペラさえ回っていればいくらでも飛べるマイクロライトやPPGの世界では単なる乱気流以外の何ものでもないから、ほとんどの競技は早朝の大気が活発に動き始める前に開始された。

タスク内容は様々で、PPGならではのローパス(超低空飛行)でパイロンをキックして廻るお遊びみたいなものや、なるべく長距離飛んで良しとするディスタンス競技もあったが、メインタスクはやはり「ナビゲーション」と呼ばれるもので、地図の複数地点に目標物(パイロン)を設定して、それらを如何に数多く正確に迅速に撮影して戻ってくるかというものだ。

この種の競技で良い成績を収めるには、地図や地形を読むナビゲーションの技術はもちろん、パラグライダーの競技には不可欠のグライダーの「滑空性能」よりも、少々性能は落ちても安定して速く飛べる「翼面加重」の高い機体がものを言う。

海外の選手のほとんどは安全性の高いパラグライダー翼を使い、私などは滑空比が9を超えるコンペ機を持ち込んでいた。他の2人の日本選手は相当に気合が入っていて、PPG用に開発したばかりのグライダーで、勝つ気満々の様子だった。

ゲートが開いて、一人の選手がテイクオフしたら、その国の選手たちが後に続き、だいたいまとまってタスクをクリアしていく。日本チームもそうだったが、巡航(水平飛行)で10kmも遅い私は、どんなにフルアクセルで頑張っても彼らについて行くことができなかった。ちなみに「フルアクセル」とは地上のモータースメ[ツの常識と異なり、エンジンを一杯にふかすことではなく、飛行翼のピッチ角を最大限下げることでAoA(アタックアングル)を下げ、対気速度を増すことをいう。基本的に固定ピッチのパラグライダー翼で推力を上げると上昇はするが、速度は逆に落ちる。

ただちょっと面白いタスクが与えられた日が一日あり、これではそれなりの成績を残した。それは、排気量も燃料タンク容量も異なるエンジンに、正確に計量した等しい量の燃料を与えて、どれほど長時間飛んでいられるか・・・という、パラグライダーの競技では、その初期に流行したデュレーション(滞空時間競技)のようなものだった。

燃料の消費を抑えるには、上昇気流を利用する必要があり、これはつまりソアリング技術の基本だ。適当なサーマルを探し当てながら空中に存在し続けない限り、ガソリンが切れた時が地上に降りる時、ということになる。化石燃料をなるべく使わないという点では自然に優しいエコな発想なので、動力飛行主体のマイクロライトやPPGの競技でも、この種のタスクがなくなることは当分ないだろう。

ハンググライダーの時代から競技生活の長いチームリーダーのM氏や、若干20歳そこそこで恐れを知らないコンペティターのA君は、全ての種目で上位に食い込んでいた。私はというと、前に述べたような具合で、そうとうに不甲斐ない成績を重ねていたので、さすがにこの日は多少気合が入っていた。

ちょっと忘れられない光景は、この競技の最中に起こった。サーマル慣れしていない海外の選手の大半が次々に脱落(着陸)していく中で、地元・南アの選手の何人かは強烈なサーマルに果敢に突っ込んで滞空時間を伸ばしていた。彼らは私たち日本選手がサーマル拾いに慣れているということをよく知っていて、一人が良いサーマルを見つけエンジンを切ってセンタリングを始めると、たちまち追いかけて来る。

私がプラス5(毎秒5mの上昇率)程度の激しいサーマルに突っ込んだ時、数十メートル下には南アの選手が一人いて、ほとんど同じペースで高度を稼いでいた。およそリフト(上昇風)とシンク(下降風)は同居している。強烈なリフトの外縁部には、まず確実に強烈なシンクがあって、グライダーが運悪くこの境目に突っ込むと、翼の何割かは叩きつぶされる。

PPGでは滅多にないことではあるが、この時はまさにそれで、私は左翼を半分ほどを潰されただけですぐに回復したが、左下にいた彼は、翼のほとんどを無くした後、弛(たる)んだラインがエンジンユニットに引っかかり、サスペンションラインの何本かを切断した。バーンという音が聞こえるくらいだったからかなりの衝撃だったに違いない。センタリングの最中に近くの機体から目を離さないのは競技者の習いだ。私は少し上空からことの始終を見ていた。彼がいくぶん慌てながら、じゅうぶん不安定になった機体で急降下して行ったのは言うまでもない。

もう一つ忘れられない出来事は、重心移動型マイクロライト(トライク)の選手の死だ。詳しい状況を聞いていないのでこれ以上のことは書けないが、シングルシーター(一人乗り)の彼が競技中に事故死したことは、関係者の全てに悲痛な出来事だった。エアフィールドの端で華やかに揺れていた万国旗は、その日以降、半旗となって彼の死を悼んだ。参加者は皆、こういうことは、空の、特に無理をしがちな競技の世界では、誰にでも起こりうることを知悉(ちしつ)していた。



別府と粟井

2011-07-04 15:23:00 | 海と風
2日土曜日・別府・19㎡+12㎡、22km。本日、粟井19㎡・8km。強風下でのハイジャンプが徐々に上達してきている。正確な高さは分からないが、エアタイムは楽に5秒を超えるようになった。 

どうすれば楽で気持ちの良いジャンプや着水ができるか、カイトの角度調整や身体の空中姿勢など、いろいろなパターンでやってみたところ、ようやく自分のスタイルに合った「飛び方」が飲み込めてきたような気がする。一言にすると、「ゆったりと」・・・まあ、「ゆっくりと無理をせず自然に生きる」という私のライフ・スタイルそのまんまだ。 

57年間、人間を続ける過程で、私にも何度か人生の転換点があった。そして、おそらく最も劇的なそれは、40代後半にやって来て、それまでの「無理だらけ」の生き方に、ほぼ完全なる終止符を打つものだった。この辺りの事情は、たぶん、あまりに忙しすぎる現代社会で、「なにかおかしいぞ・・・」と思いながら、一生懸命に生きている人たちの一部にとっても、あるいは何かの参考になることがあるかもしれない。また気が向いたときに書く。 

画像は土曜日と今日のトラック。 

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南アフリカ (2)

2011-07-02 09:53:00 | 追憶

PPGは当初、モーターパラとかパラモーターと呼ばれることが多く、フランス人が芝刈り機を改良した小型エンジンを背負い、まだ滑空性能の悪いパラグライダーを飛行翼にして、山からではなく平地から離陸することができるようにしたのを始まりとする。80年代中頃のことだ。

この画期的な出来事は・・・といっても誰でも思い付きそうな発想ではあるが・・・たちまち日本のTVニュースでも紹介された。私は、たまたまそれを食い入るように観て心を躍らせたパラグライダー愛好家の一人だった。

日本の大沢製作所という小さな町工場が、カートの100ccエンジンで似たようなものを造って販売を始めるのに、さほど時間はかからなかった。「海外から輸入した文物を、たちまち消化し、さらに洗練しながら日本流のものを生み出す」という大和の時代から変わらない日本人の奇特な能力は、この世界でも存分に発揮された。数年のうちに、日本のPPG製品は世界中の飛行家があこがれの目で見るほど品質の高いものになっていた。飛行翼としてのパラグライダーの歴史もしかりである。

今回の大会には、カラオケで有名なDK(第一興商)のエンジンを5台持ち込んだのだが、会場でもその仕上がりの良さは際立っていた。光を放つような流麗なデザインが会場の一画にズラリと並ぶと、海外の選手たちの目はほとんど羨望の眼差しに変わった。結局、私が持ち帰る予定だった一台を含めて、これらのエンジンは大会終了と同時に現地で完売となった。

このエンジン付きパラグライダーの普及が進むに連れて、FAA(国際航空連盟)はその分類に戸惑うことになった。人間の脚で離陸着陸し、ちゃんとした着座装置を備えないものを、航空機の一分野である既存のマイクロライト(ウルトラライトともいう)の範疇に入れるのは難しい。かといって、小型ながらエンジンという動力を使うのだから、単なる滑空分野でもない。

まあ、自由を愛する人間の立場からはどうでも良いことなのだが、この問題は日本の幾つかの航空団体の間でも紛争の種となり、滑空を主体とする団体では「補助動力」として滑空分野に、マイクロライトの団体ではその傘下に加えようとして、FAAの方針に従い「PPG(パワード・パラグライダー)」と命名した。今回のPPG世界選手権大会が、マイクロライトと同時に行われたのは、世界の航空界を統括してきたFAAが、これをその一分野としてカテゴライズしたからだった。

ことの成り行きで、私はその両方の技能証や指導員の資格を持ってはいるが、こんなものは、人類の飛行の歴史から見ても、個人の自由への歴史から見ても、全くどうでも良いことの一つだ。

またまた脱線しそうになったが、これは今回の私の旅の2番目の目的「この分野における世界の飛行家の姿勢」に関係するので、ちょっと触れておいて、次回は最初の目的「競技」の中で起こった印象的な出来事を少し書く。 



晴耕雨読(せいこううどく)

2011-07-01 20:24:00 | 海と風
忙しい半日だった。ドンヨリとした空模様。天気図からすると風の本流は南寄りに違いないものの、頼りにしていた粟井はいまひとつ、M君と塩屋で19㎡のメンテナンスをした後、北に向かってモンチに寄り、別府でF君と合流して、ついに新エリア・小部まで。ここでちょっと風に吹かれたあと、別府にとって返してきわどいコンディションを2レグ・・・と、近在エリアの端から端まで久しぶりに慌しく動いた。 

小部海岸は予想通り南の岬の影響で風が回り、かなりのガスティー・コンディション。湾の北に走り出れば安定しているだろう試みてはみたものの、まあ、ウルトラ・ガスティでお話にならなかった。やはりここは、まっすぐなオンショアにならないと、厳しいかもしれない。もっとも西向きの海岸でオンの順風なら、別府がサイドの順風になる。あと気にすべきは潮流だけということになるが、これも安定した順風なら大きな問題にはならない。 

「風読みの世界は日替わりランチ」というM君の例えは面白かった。F君のこの世界に注ぐ情熱は私を超えている。雨模様で不安定な風模様の日の、貴重な時間をどう有効に使うべきか・・・私の場合、晴耕雨読ならぬ「晴海雨読」、あるいは「晴走雨眠」の四文字が頭に浮かんでいる。

 左から、本日の塩屋、粟井、別府近辺の風模様。

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