やはり上空にはしっかり寒気が入っていて、一部雨雲と化したクラウドストリートが出来ていた。海水温はまだ高い。 雲が通過するたびに、強弱を繰り返す冷風は、北西から北東まで忙しくシフトしながら、遂には雨風に変化した。
今日のハイライトは、北東方向、鹿島から粟井にかけて現れた鮮やかな虹だ。こんなに近く虹と出合うことも珍しい。右端はハッキリと海岸道路の手前に落ちていて、北西寄りの風にメ[ト・アビームで走ったら、そのアーチに中に突き進んで行くような気分になった。
今朝の室温14℃・・・いよいよ冬が近い。
昨日の午後は、この季節、寒冷前線に付きものカミナリが轟音を響かせていた。近くの小学校のちょうど下校時刻。でかいのが一発落ちるごとに、女の子たちは「キャー!」と叫びながらどこか楽しげだ。ちょっと嬉しかったのは、男の子たちの反応で、あれだけ激しい雷鳴の中「か~みなり~か~みなり~もっともっとおちろ~!」とか、ワイワイ歌いながら我が家の横を行進していった。
どんな大人も子供から始まる。そして子供たちの内部には、太古の時代から流れ続ける「原始感覚」のようなものが色濃く残っているのに違いない。それが現代文明や大人社会への適応の過程で、徐々に萎縮し生命の深い部分に沈潜される。
このプロセスを世間の常識では「社会的適応」などと呼んで、当然のごとく奨励し、育児・教育の主要目的にしたりする。しかし、もし、その適応すべき「文明や社会」が、人間本来の幸福という視座から見たとき、大きな歪みひずみを抱えているものだったら、コトの経過や結果はどうなるだろうか・・・?
まあ、この辺りの私の観察は、また気が向いたときにゆっくり書く。コトの次第は複雑だが、結論はいたって簡単。20世紀を代表する飛行家で後に熱心なナチュラリストになったC・リンドバーグは、こんな言葉を残している。彼の神を大自然と置き換えたら、私の日頃の感想になる。
「我々は自分自身を知るために大地を感じ取り、その(自分自身の)価値を認識しなければなければならない。神は生命を分かりやすいものとして創った。それを複雑にしているのは人間である。」
Man must feel the earth to know himself and recognize his values... God made life simple. It is man who complicates it.
ところで、私はたいがいの自然現象とは友達になれるが、カミナリ君とだけはなかなか仲良くなれない。家や車の中にいればどういうことはないのだが、海上や山中や空中でこれに遭遇すると一目散に逃げ出したくなる。
子供の頃はこんなではなかったはずなのだが・・・そう言えば、幼い頃、「目の前を歩いている人の傘をカミナリが直撃して悲惨なことになった・・・」というような話を母から聞いた覚えがある。しかし、目前の人物に落雷すれば、当然、近くの人物にも相当の被害が出るはずで、その母はなんともなかったのだから、ちょっと膨らませた話だろうと思う。
15年ほど前、真夏のパラグライダー飛行中に、私好みの積雲に突入し、雲中飛行で気持ち良く高度を稼いでいたら、それが雄大積雲から積乱雲つまりカミナリ雲に変化して、予定外の3000mまで上昇してしまった状況は、今も鮮明に覚えている。
結果的には、これでクロスカントリー飛行の距離を伸ばし、五十崎町の神南山から重信町近くまで飛んだわけだが、山中にランディングして半時の後、案の定、激しい雷雨になった。このきわどいフライトについては、ちょっと貴重な体験の一つなので、またいつか詳しく書くつもりだ。
さて、今日の塩屋海岸は西北西の強風がアベレージで10m程度。トップブローは15mを超えていただろう。風はいつも一様に吹くわけではない。人間の呼吸と似て、その日その時のコンディションによって、強弱を含めたさまざまな調子を持つ。「平均風速」というのは、気象庁の場合、定時前10分間の風速変化を延べたもので、瞬間最大風速は、これのおよそ1、5倍~2倍に至ると考えて良い。
しばらく風に吹かれてなかったS君はやる気満々で、「今日は吹き飛ばされてみたいなー!」などと言う。「よし!塩屋なら、それもよかろう!」・・・ということで、少なくとも地上練習では安心して使えるバイロン6㎡で1時間半ほど。私も10㎡を上げてはみたが、何もできそうもないのですぐに撤収。なんにしても、心地良い午後の一時だった。
静かな日曜日だった。そう風のことを気にするでもなく。朝は、アメリカ大陸の東はずれに住む友人家族とのスカイプ交流の楽しみにS君も加わって・・・まあ、とんでもなく便利な時代になったものだ・・・。
運よく数百年後まで現在路線の人類文明が残っていたとして、今という時代は、まさに「大情報革命」の時代であったと評価されることは間違いないだろ。それが本格的に始まったのは、ほんの20年ほど前、Win95が出て、マックも頑張り、インターネットが大普及を遂げてからのことだ。この間の世界的技術革新はどんなに驚嘆してもしきれないくらいだ。
何年か前に、こんな記事を書いたことがある。こんな変化がまだまだしばらくは続くだろう。
「ウィンドウズ95が出てすでに12年、干支が一回りしたわけだが、この間のインターネットやパソコンの技術革新は目まぐるしかった。ほとんど驚異的と言ってよい。私が手にしたWin95最初のPCは14インチモニター一体型のNECキャンビーだった。(当時25万円、今これだけ使えばかなりの性能のデスクトップが3台は買える。)Win3.1に比べると格段に扱いやすいOSになって、随分多くの時間をワクワクしながら、時にはノイローゼになりそうなくらい熱心にこの世界との付き合いを始めた。
ちょっと振り返ってみると、私のパソコンの原点は25年前のまだマイコンと呼んでいた頃のシャープMZ7000だ。これを安月給をはたいて購入したときの嬉しさは格別だった。モニターは家庭用のテレビ、プログラムはBASICをカセットテープで小さなメモリに何分もかけて読み込ませてから更にゲームソフトのテープを読ませる。それでやっと『スタートレック』などのアドベンチャーゲームみたいなものが楽しめる・・・というもので、ともかくゲームがしたくて始めたようなものだった。
そして、このBASIC言語を何日もかけて組んでやっと完成させ大喜びしたのが単純なピンャ塔Qームだった。これで充分感動できた時代だ。このゲーム熱も数年後にファミコンなる万能ゲーム機が出て一挙に冷めてしまうことになる。
12年前のネット環境は今から考えるとバカ高い料金の従量制で、ピーヒョロと鳴く14.4Kbpsのモデムで、常に時間を気にしながら100kb程度の(楽しい)画像を落とすのに何十分もじっと待っていたこともあった。これが今や100Mbpsの時代だ。ざっと1000倍の速度!
HPを中心とするネット上の情報の総量も圧涛Iに少なかったけれども、英語サイトの文書類にはかなり使えるものがあった。すごい時代になったな!これからもっとすごいことになるだろうなー・・・と考えていた。そして、その通りになった。PCのCPUやハードなどはもう言葉にもならないくらい大変なもので、私の想像をはるかに超えていた。メガバイトの単位のハードディスクの容量がギガバイトになったのだから、これも単純に1000倍進歩したということになる。10年ちょっとで1000倍に変化するものなんて、第一次世界大戦後のドイツを除いては、終戦直後の日本の物価くらいのものだろう。
人間の環境適応能力は全ての動物に優れる・・・という人がいる。私もある程度はこの説に賛同するが、しかし、どんどん前に進むだけが人間の幸せでないことも良く知っている。つまり、日の当たる進歩の裏にはおそらく同程度の退歩の影がくっ付いているという見方をする。長い目で見た場合、その退歩・後退が人類の存続にとって決定的な負荷になり、取り返しの付かないものにならないことを、とりあえず今は願うよりないのかもしれない。」
やはり問題は、これで「人類が幸せになるかどうか」ということで、大概のモノゴトには明と暗があるから、手放しで喜んでいると、たぶん痛い目に会うこともあるだろう。
人間が作った道具を使うのは、もちろん人間であり、おそらく宇宙大に広大深遠な人間存在そのものの「科学的」探求は、どんなにひいき目に見積もっても、序の口に付いたばかりじゃないかと思われる。
もっとも私は、いわゆる現在の科学的方法のみが、人間探求方法の全てではないと考える人間の一人である。
大海も 磯もとどろも なけれども 塩屋に騒ぐ 瀬戸の風波
おおうみも いそもとどろも ないけれど しおやにさわぐ せとのかざなみ
今日の塩屋の海を見て、鎌倉幕府三代目、源実朝の「大海の磯もとどろによする波われてくだけて裂けて散るかも」を少しパロってはみたが、まちがいなく、正岡子規先生に怒られるだろう。
子規は実朝を次のように評する。「・・・実朝といふ人は三十にも足らで、いざこれからといふ処にてあへなき最期を遂げられ誠に残念致し候。あの人をして今十年も活(い)かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ不申候。とにかくに第一流の歌人と存(ぞんじ)候。強(あなが)ち人丸(ひとまろ)・赤人(あかひと)の余唾(よだ)を舐(ねぶ)るでもなく、固(もと)より貫之(つらゆき)・定家(ていか)の糟粕(そうはく)をしやぶるでもなく、自己の本領屹然(きつぜん)として山岳(さんがく)と高きを争ひ日月と光を競ふ処、実に畏(おそ)るべく尊むべく、覚えず膝(ひざ)を屈するの思ひ有之(これあり)候。古来凡庸の人と評し来りしは必ず誤(あやまり)なるべく、北条氏を憚(はばか)りて韜晦(とうかい)せし人か、さらずば大器晩成の人なりしかと覚え候。人の上に立つ人にて文学技撃ノ達したらん者は、人間としては下等の地にをるが通例なれども、実朝は全く例外の人に相違無之(これなく)候。何故と申すに実朝の歌はただ器用といふのではなく、力量あり見識あり威勢あり、時流に染まず世間に媚(こ)びざる処、例の物数奇(ものずき)連中や死に歌よみの公卿(くげ)たちととても同日には論じがたく、人間として立派な見識のある人間ならでは、実朝の歌の如き力ある歌は詠(よ)みいでられまじく候。・・・」 『歌詠み与うる書』の冒頭。
ここで子規が「人の上に立つ人にて文学技撃ノ達したらん者は、人間としては下等の地にをるが通例(権力や社会的地位を持ち、ある程度の文学や件p・技術を心得た人間は、多くの場合、傲慢になり人格としては下劣の類となる※寛太郎的解釈)」と断っているあたり、私は子規その人の偉大さを直感する。
若干26歳で暗殺された実朝については、加藤周一も、彼の最期の遺言的映像『それだけではない』で繰り返し語っていた。その和歌の偉大さは、今のところ私の理解の向こう側にある。しかしそれらは、おそらく長い日本の詩歌の歴史の中で、桁外れに優れた虹彩を放っているのにちがいない。
ただ、実朝の来歴・事跡を知るにつれ、色々と興味深い事々が浮かび上がってきて、私のような歴史音痴でも、どんどん深みにはまりそうになる。例えば、彼が渡宋を計画するに至った経緯に、こういうのがある。
彼が21歳、東大寺大仏の再建を行った宋人の僧が彼に会うために鎌倉まで参上して御所で対面した時、実朝を三度拝んで泣いた。実朝が不審に思って聞くと、僧は「あなたは、昔、宋朝の医王山(薬草がたくさん採れる山からの命名らしい)の長老であり、私はその時の門弟の一人であった」と述べる。それは、実朝が5年ほど前に見た夢に現れた高僧が語った内容と同じであり、実朝はそれを他言したことはなかった・・・というような話である。
「転生輪廻」云々の思想について、私は「神の存在」云々と同様、とりあえず証明不可能、つまり「在るかもしれないし無いかもしれない」類の問題として、解答を保留してある。
神については、その存在を前提とした時代と、それを消し去った時代が残っているから、話はいくぶん簡単になる。あると考えたらとうなるか、ないと考えたらどうなるか・・・ということが分かりやすいという意味で。しかし、転生輪廻については、かなり複雑でややこしいことになるだろう。
どんなにややこしいことになるかは、複雑なことを書くのが、めんどくさくない時に書くことになるだろう。私なりに想うところはある。いずれにしてももしこれが事実であれば、非常に面白いことになることになるな・・・とは思っている。