今日はもしかすると・・・って言う準備の為に、イワシの群れの下絵の続きを描いたのね。もしかするとは、もしかするとって言う事の準備であって、もしかしないと、使うのは先の話になったりもする・・・そんなものの事。
良くある話は、何かにエントリーしようとすると、その作品を今から作る・・・これでは後手後手に回るような事になるのね。それでも、時間の余り掛からない分野ならそれでも十分間に合うが、天気にも左右されたり、他にもやる事があると、
気忙しく作らないとならないから、そう言う制作の仕方が好きじゃ無い事もあると、こうした事前準備って言う事になるのね。例えば湯婆婆も、最初はノリで作っていたが、その果てしなさと、その頃よりもお教室も増え、制作が遠のいた。
それが移転をきっかけに移動看板にする・・・って目的で制作すると、車輪が付いたりして・・・当時とは目的も使い方も変化したりして・・・要するにやっている事は常にモザイクなんで、仮に今の目的に使えなかったとしても、それが生きる
場所って言うのは必ず出て来るもので、無駄になる事は無いのね。しかも事前にこれだけを仕込めるのと、話が決まってから始めるのでは、仕上がりに大きく影響するしね。何しろモザイクって言うのは時間が掛かるものだから。
って言うか、俺は・・・にしとこうかな。そんなこんなのまた魚シリーズ・・・って思う人もいるだろうけど、それがそんな単純じゃ無いのね。まぁオリジナルを作る参考にでもなると良いんだけれど、人には五感なんてもんがあるのね。
だから、別に制作なんて事に携わらなくても、みんな平等にそれは授かっているのね。所が目指す、目指さないって振るいに掛けられちゃうのね。例えば音楽、耳が良い中には絶対音感なんて人もいる。ほら感が付いた。
こんな人は例外だから、大谷さんと同じ扱いでも良いと思うのね。だからもっと普通な事。それは馴染むとか慣れる事。つまり反復練習で、耳で聴いてコピーをする。別に楽譜って言うものを見なくても、スピードラーニング的に繰り返す事
で身に付ける方法はあるのね。ただ楽器なんて弾かないし・・・これで終わってしまう。弾く人と弾かない人って判れる。視覚だってそう。単純なのはゲーム。間違い探しが得意。違うって事に人より敏感・・・また感。
ゲームなんかしないし・・・そうね、あんまり意味無いって言えば、無いけど、見逃さないって言う目は、曲がっているとか揃っていないとか、もしホテルに勤務だったら?審判だったら?判断する目が良いって事になれば、使えば力になる。
味覚もそう。味噌や醤油なんか何でも良いじゃん・・・の人には関係の無い話だけど、こだわりが強ければ、刺身醤油なんて言う特別なものがあったりする。きっと味覚に優れていれば、違いが判るんだろうね。
触覚だって、柔らかさや硬さの違いが判ると、ラケットやバットの質の違いすらも判ってしまう。感触・・・また感なのね。つまりこだわるって原点は感じる・・・なのね。感じた上で、自分はどんな違和感があるのか?とか、逆にフィット
しているのか?なのね。これが上手く行くと、最低限の自己満足にたどり着く。しかし自己流には限界があって、その分野に長けている人などの本やら、画像などで、知識を入れて行くと、洗練されたりもする。
例えばその道を自己流から歩いて、知識を後から・・・って言うのもアリだし、逆に最初に基礎を習って置いてからの、自分流にアレンジして行くって言うのもアリなのね。要するに作詞からなのか?作曲からなのか?的な話なのね。
話を戻して、つまり感なんてものが人にある・・・って事で言うのなら、その感性に触れるって事が仕事なのね。それが魚であってもね。例えば、シーバスやアオリイカの場合、黒い縁取りで1匹だった。しかも輪郭通りにね。
この場合、標本みたいになる。下にネームを入れれば、水族館の案内にも使えたりする。それが同じアオリイカでも、バックのOSB合板があると、今度はちょっと変わって、インテリアとか絵画のような扱いになったりもする。
ちょっと同じアオリイカでも雰囲気が変わったのね。そこに同じ黒い縁取りのスタイルなのに、文字を入れると、アジの作品は、寿司屋さんの看板的なものに変わって見えたりもする。バックの木だったり、文字が入った事でね。
では今回のイワシの群れの場合なら?これがイワシ1匹ならただ魚種が変わっただけなのね。しかしながら群れ。これは違うのね。しかもここにタイトルを入れたとする・・・すると一挙に芸術色が濃くなる。
そもそも進撃の巨人でも、鬼滅の刃であっても、最近の漫画のテーマに似ていて、常に相手の気持ちを考えたりするのね・・・自分の考えを正義としないで。単なる敵と戦う正義って言う単純なものでは無いのね。
つまり1匹の場合、その単純側にあって、似てるか似ていないか?になる。所が群れとなると、1匹似ているとは違い、何匹も似ていないとならない大変さはあるものの、似ているとなると、ただ数の分、似ている度が増すだけでは、割が合わない。
つまりそれ以上の何か?が手に入らないと・・・そこで知恵が必要になる。つまり本当の意味でのオリジナルって言うのは、ただのモチーフなら、似ているか?だけなんだけれど、そのイワシのキャスティグで何を言いたいか?なのね。
例えばシーバスって言うのは、フィッシュイーターだから、餌は小魚。つまりイワシを食べる側になる。しかも東京湾なら、相当大型魚になるし、強いって点ではピカ一だと思うのね。つまり扱いは、ジャイアンであり、ミツバチじゃ無くて、
スズメバチ扱いになったり、巨人であったり、鬼の扱いになる。小さな魚が可哀想って・・・小さな魚側に付いた人達にね。所がじゃイワシは?となると、イワシは餌側では無いのね。イワシもプランクトンを口を開けて大量に食べる。
つまりプランクトン側に付けば、イワシとてシーバスと一緒なのね。これが食物連鎖。そしてそのどちらも人間が食べる。そんでもって、素晴らしい器の先人が、人間の敵は人間って言う事で、ちゃんとしたオチを付けてくれているって話。
まぁそれは置いといて、群れにする事で、後ろにシーバスを付ければ、仲間と逃げ惑う姿にも見え、何も無くイワシだけなら、単なる群れって数のオブジェになる。でもそこにタイトルが付いた時に、そう感じる人がいたのなら?
もしかすると、それがオリジナルの始まりで、もしかすると芸術の入口かもね・・・。大きくて強そうでも、サメやマグロ、そしてシャチやクジラ・・・海には大きな生き物はいくらでもいるし、魚だけと戦う訳じゃ無いのね。
アザラシ、熊、ワニ、そして空から鳥・・・場所に寄っては敵も変わって来る・・・自分が一体何に属すか?で大きく変わって行く・・・勿論、人間なんだけれど、人間の敵が人間なら、どんな人間に属するのか?
弱ければいじめられっ子にもなるし、強ければいじめっ子。こんな単純なら判りやすいが、そんな簡単じゃ無くなった。同じ年、同じ学年、大きい小さい、賢いか?そうじゃ無いか?お金持ちに貧乏、出世したか?しないか?
比較の対象は外国の人と一緒に生活をするようになって、益々しのぎを削っているようにも思える。何処に属していて、今の自分の状況を把握しないと、みんな平等なんて言うのは、幼い頃の話・・・ちゃんと甲乙丙丁みたいな、昔から、
ちゃんと、士農工商みたいに残っているのね。きっと生きるって残酷なんだ・・・と。群れは安全か?となると、群れれば差は生まれるし、群れずに1匹で生きるには、それ相応の魚にならないと、所詮イワシやアジになる。
子供でもマグロは美味しい・・・って比べるのだから。残酷だが黄金アジになったとて、アジは所詮アジ。何万にはならない。しかしマグロなら・・・もっと言えば、そこにブランドが付けば・・・大間のマグロなら、庶民では口には入らない。
本当に凄いのなら、大谷さんのように手の届かないようになるんだろうが・・・。そんなものをいつか作って見たいのだが・・・。