katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

両親の病院の送迎と急きょさくら教室

2023-10-11 00:16:46 | モザイクタイル教室
今日は両親の病院の送迎から。何だかんだいつもの通り半日で終わって、午後から急きょさくら教室。そうね、さくらにしては中々のアイデアだったと思うのね。外回りを三角で埋めるかぁ・・・

例えば普通って言い方好きじゃ無いけれど、無難に・・・とすれば、クラッシュって不規則な・・・とか、いびつな・・・みたいな形で埋め尽くすなんてのは、誰もが考える事だと思うのね。

それを、規則正しい形に切るって事になると、幾何学模様的な繰り返しになる。その時に、ある程度思った形に切れる人と、そうでない人の2つに分けたとして、考えると、まず切れない人からすると、例えば、

きちんと切れないのだから、うどん、きしめん、そば・・・みたいになれば、安定感が無く、これを何と呼ぶか?って事になると、難しいでしょ?それをやや安定なら、きしめんとうどんなら、

うどんが多ければ、うどん?って具合に語尾を上げた反応になる。それがそば、そばって誰が見ても蕎麦に決まっている安定感だと、蕎麦屋さんに蕎麦みたいに細いね・・・とは言わないけれど、

例えば、それが中学生なら、こんな細いの凄いね・・・って言うだろうし、それが小学生なら、
えっ?これを切ったの?って感じに驚かれるだろうね。それらを引っくるめて、それがタイルだと、

安定感に切れると、タイルって切れるの?って認知されていない・・・って所からスタートになったりする。ただ余りに美しい安定感だと、こんなパーツが売っているのかと思った・・・って、

最上級の称賛が頂けるのね。そう見られれば、上手く見えて当然なのね。それはきちんと狙って切った必然の繰り返しだからなのね。では逆にクラッシュの場合、流動的で、切ったと言うより割れた・・・なのね。

それを入れたぁ、合わせた・・・って感じだから、簡単そうに見えるのね。でも上手い人って言うのは、そこをただ割れたって流動的にしないのね。そうすると人の癖って言うのがあって、

ついつい同じ形ばかりになりがちなのね。ここで気が付いて欲しいのは、狙って切れる人は、どうして切れるか?なのね。それは切りたい形と大きさを把握しているからなのね。そして反復練習。

これで切れるようになった人なのね。こんな理由があったとして、それでもし、それじゃランダム・・・つまりお好きにと言われた時に、何をどう切れば良いのか判らなくなるのね。

逆に、初めての人は切れたらラッキーって感じだから、当然安定感など無いのね。つまり安定しないから、うどん、きしめん、そばになっちゃうのね。まずここね。出来るから切れた。

出来ないから切れない。この理屈を知った上で、それで流動的なランダムで切ったとする。そうなると、切れる人は悩み、切れない人は、何しろ何だか判らずに切れたぁ・・・と割る。

ほら全く違う結果になる。つまり考えずに切れるから、初めての人は有利になり、切れる人は、考え過ぎて、何をどう切って良いか判らない・・って状況になり、けれど切れない訳じゃ無いから、切って見ると

安定感の無いパーツに自分が幻滅するのね。何しろ安定感が身に付いているから、そのパーツが許せないのね。野球ならストライクに投げる練習をし続けて、確率良くストライクに投げられるようになったのに、

ボールを投げて・・・変な所に投げるって・・・。もはや投げたくなくなるし、戸惑うって感じになるのね。これが心の中の仕組みね。しかも両者が相席なら、切れる人はまさかの困る姿・・・

これは精神的にやられるのね。じゃここの是正の仕方は、逆も真なりって感じで、要するに切れる人は狙って切るのが上手い。これを前提に、それなら狙う形を明確にすれば良いのね。

そもそもどんな形も切れるのだから。そこで大事なのは切る腕では無く、頭なのね。しかも癖があるから、何も考えないと、同じ事をやってしまいがち。だから、まず何でも良いから切って見る。

それを見て、次はその形では無いように狙って切る。そしてまた考えずにを切り、次はその形とは違う形を狙って切る・・・って偶然、必然を繰り返せば、考える事は半分で済む。

しかも、偶然の時に癖が出るのなら、癖パーツが半分入っているから、かなり癖色が濃くなる。この理屈は、切る事が上手くなったと言われる人にありがちな事で、考える・・・って事が、

切るのが70点、考えるのが10点みたいに見劣りしているからなのね。ある程度、切る事が上手くなったら、この考えるって方を底上げして行かないと、常にどうしたら良いんだろう・・・って、

つまづく事になるのね。こんな練習をしていると、段々切る技術に考えるって方が付いて来るようになると、よりオリジナル感が出ると思うのね。そう考えると、さくらがここを三角にする・・

って言うのを読み切れなかったのだから、俺の想像を超えた事をして来た・・・って思うと、中々良いじゃんって感じなのね。そうね、ここで検証すると、ここまでは梵字なんて宗教チックな文字

を使う事で、かなり違和感を覚えたりもする。これが英語で筆記体なんて言うと、オシャレな感じになるし、それをカリグラフィなんて言うと、芸術チックにも思え、美しさも増すと思うのね。

それが漢字だと、一文字だと達筆で柔なんて入れると、武道家が集まるような場所にも思えて、
そこに赤だのピンクだのっている?って事になると、格式からは遠のくし、神々しさも消える。

それは忍なんてのでも同じだし、心とか美とかになると、前者の格式が男っぽく感じたのが、女性っぽくなったような気もするし、体なんて事になると、発育盛りの子供がいるような体育館みたいな感じに思えるし・・・

要するに人の感じ方ってもんがあると思うのね。その文字の持つ意味なんてのを考えたりする作り方をすれば、自分が選んだ文字なんだけれど、YOASOBIチックに、小説ありきの歌詞みたいに

なり、自分の好みって趣味趣向では無く、小説に寄り添う形のスタイルになる。つまり赤使いたいし、青も、黄色も、緑も、オレンジも・・・って言えば、恐らく梵字ファンサイドとしては、

変なの・・・って事になるだろうし、あくまで読めない文字はデザインチックに、絵みたいに捉えれば、綺麗ならそれも良しなんてスタイルになるだろうね。そんな事を踏まえると、今の所は、

梵字ファンサイドから見ても、まだ何事も起こっていない感じで、普通に見える気がするのね。つまりやらかすなら、次の展開の場所からになる。そこで大きくやらかすか、小さくやらかすか?

さくらが色んな色が使いたいのなら、俺の提案は涙型の形部分に入れるのなら、全色変えても良いとは思うのね。スペースは小さいし、けれど充分にアピール出来ると思うんだけれどね・・・

そんな中、俺は次の冬部分の仕込み。

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