katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

今日は三本立て

2024-07-21 01:32:58 | モザイクタイル教室
今日はお教室の3本立て。まずはリピーターさんから。ミニテーブルサイズなんだけれど、何しろタイルを切る練習とほぼ切るのは宿題で、アトリエで張るってスタイルなのね。

大まかに水色に見えて、中心部に赤いクローバーを入れるってくらいの事だけで、後はその都度考える・・・って完全オリジナルなのね。こんな時は、完成図無しなんで、フィーリングなのね。

でも余りにノープランでは、えっと・・・って時間ばかり経ってしまってはねぇ。だから、全体を通して水色とすると、悩んだら水色で、飽きて来たら箸休め的に色を変える。これで後は切り方。

つまり形。全部切るって大変だから、疲れたら既存の形のままで、調子が良ければ、色んな形を試して見る・・・こんな程度のイメージ。それと考え方は、何でもモザイクとして考えない。

例えば、韻を踏む。きっと、もっと、ずっと・・・みたいな響きが心地良ければ、似た形の繰り返しとか、デコボコしたら、間に入れるとか、一旦段落替えみたいに、線を入れて切るとか・・・

五感って話として、そんな風なもんが良く感じるのなら、音楽なら聴覚として心地良ければ、その仕組みを取り入れて、常識では楽譜に落とす所をモザイクとして視覚に変換するって考え方。

タンタンタン・・・って続ければ、安定感はあっても、単調で飽きる。それをタンタンタタってリズムにすると、メリハリって思うなら、大きい大きい小さい・・・って形を変えると良いし、

そこに色を変えたり、デクレッシェンド、クレッシェンドのように、段々って言うのなら、段々大きく、小さく・・・これもまた手法として良いだろうし、味覚のような隠し味って言うのなら、

隠れキャラ的な模様を入れたり・・・全てが五感に訴える事なのだから、共通な話なのね。そんな事を考える・・・後は配置。そんな事を繰り返していると、いつしか鍋敷きサイズになる。

大きいと思った面積の時は、果てしなさを感じても、鍋敷きサイズまで来ると、それなら経験のある人なら、作った事があるサイズに感じられるし、もっと進めばコースターサイズになる。

例えば、今100mを走ったとする。たどり着けば世界一の人と1時間離される事は無いが、もしマラソンだったら、たどり着く事さえ無理。こんな差がある。でも1日で走れなくても、数回、

数十回・・・と数を増やせば、等分にすれば、極端な話、100m走を何回もすれば良いのね。その時に、繰り返しているだけなのだから、最初の一回も最後の一回も同じなのに、気分が違う。

この気分って事を自分でコントロール出来るのと、出来ないのでは全く違うし、意識って言うのも、出来れば自覚って話になるし、いずれにせよ、そんな話も踏まえた制作なのね。

そんな訳でお次は中学生。

見てすぐ判る人なら、これだけで何を作っているか?判るだろうね。この部分を下に10cm程度降りるだけでも、恐らく3時間から4時間は掛かると思うのね・・・中々果てしないのね。

ただここまでは、労作展の子達の中では一番安全圏内に見えるのね。そして最後は、

この方の場合は、国盗りみたいな事を陪審員や審判のような気分で、中立みたいな感覚で・・・
まずグレー側と水色側って戦いになるがグレーが勝つシナリオなのね。その時にコツは、

料理のしょっぱい、甘い、甘じょっぱい・・・みたいな話で、例えば子供でも甘いのは、砂糖にみりんに金平糖って感じだったり、お金持ちは100万円みたいな表現をすれば伝わる。逆に

しょっぱいは、大相撲の力士がカバっと掴んで、ドバっと撒く・・・これで伝わる。つまり極端であればあるほど判りやすいのね。所が甘じょっぱいって言うのは、キーパーでもフォワードでも

無く、ミッドフィルダーなのね。所がミッドフィルダーってのは、攻撃型と守備型ってあったりして・・・例えば極端とは、0点と100点って感じの話ね。これを甘じょっぱいを50点とする・・・

って言うのなら、数字だと簡単だけれど、じゃみんながみんな50点の味を甘じょっぱいと感じるか?なのね。だから料理本は難しいのね。お好みの味で・・・ってね。ただそれでは指導には、

ならないでしょ?だから、この人が一体どっちよりの人か?を知らないと教えられないのね。イケイケどんどんのフォワード型か、内気かみたいなね。それに寄って味付けが大きく変わるのね。

だからその人の内面が必要となるんだけど、どっちですか?って聞いた事を鵜呑みに出来るなら簡単なんだけれど、それなら調べる必要は無いのね。お医者の問診の問に風邪なりました・・・。

そうですかって有り得ない。なら風薬飲みゃ良いじゃん。ってな話になる。そうじゃ無くて、レントゲンも何も無いから、心療内科のように遠回しな色んな質問で、きっとこんな質問にこんな

答えが返って来るのなら、こんな話にはこう返って来るはず・・・あぁこうかぁ・・・ならこれは?みたいな事を繰り返す事で、メンタリスト的な事と同じような事で、どんな事を考えているか

推測をするのね。それでこう言う事?こんな感じ?って一致を見た時に、それならこんな感じ・・・ってな事で、この人の甘じょっぱいってのは、曖昧ゾーンってここら辺なんだな・・・って事で、

この人の基準を知る事になるのね。勿論あくまで基準だから、その都度感情や気分で変化するから、今日のこの人は?って常に書き換えなきゃならないんだけれど・・・。だってパソコンで

アップデートしないとならないのに、人に無いはずが無いでしょ?人はそんなに簡単じゃ無いのね。何しろ曖昧機能が複雑だから。要するにその人が自分を本当に知っているのなら自覚あり。

じゃ未熟なのは技術だけになる。けれどもし自覚が未熟なら?そこも指導となる。そんなの判ってる・・・って人は良いけれど、ならB'zのウルトラソウルの歌詞で、己の限界に気付いたつもりかい

?良いのかいぃぃって言うのがあるが、自覚を間違えると、かすり傷1つも無く終わるって事になると、ずっと楽をして楽しめば趣味は成立する。けれどもしこの人が、本気で上手くなりたいと

言うのなら、目に見える技術なんてマメに来れば簡単に身に付くが、自覚って目に見えない自分自身なんてもんを知る・・・つまり心技体の心の部分となると、俺もそれと向き合う事になるから、

大きく責任を負う事になる。言いたく無い事もあるかも知れないし、傷付ける事になるかも知れない・・・ただ人が成長して行くのに、何も無く単なる技術だけで良いのなら、心技体の言葉は、

要らないはずで・・・それがカルチャーとは違う個人レッスンって事になると、誰もが同じスタイルでは無く、その人が目指す学校、能力、時間、みたいなものから、何が出来るか?の見極めも

必要になるものでしょ?勿論、ここで一体何をお求めか?ってな話になるんだろうか?だけどね。それが明確なのが労作展なのね。一番判りやすい。ただある意味この方も判りやすい。きっと弟子に

なり、仕事してみたいんだろうな・・・って事になると、本気で教えないと・・・心をとなる。だから今の俺は、時より見て、少しだけ教えて、一番大事なのは自覚・・・何をしたいのか?

今自分はどう言う事にしたいって思っているのか?をザックリとでも、俺に伝えるって練習が大事で、そのさじ加減の曖昧ゾーンをいつかミリや数グラムの誤差で教えられる関係になる。

それにはお互いにどんな人か?を知らないと、どの人も同じ指導って1つの教科書、マニュアルなんて事では済まないのね。みんな型式が違うのだから。しかも取扱説明書も持って無い・・・。

人と本気で向き合うってのは、大変な事なのね。でももしそれが実になり花を咲かせたりした時の嬉しさは、自分が成長した事とは違う喜びになるのね。先生冥利ってのは、作家冥利とは違う。

しかもそれがいつか一緒に仕事をするって言うのなら、ただのアシスタントならローディでも同僚だけれど、かぐやまで来ると、ライバルにも感じるもので・・・そこまで来ると、切磋琢磨が、

同僚と出来る訳で。勿論そうなると、お互いに傷付く事もある・・・し、お互いに喜べる事もある。つまりこう言う育て方は、いつかライバルを作るようなもので・・・それで消えれば、ただ

盗まれた事になるだけ・・・技術も心も・・・結構大変なのね。ただ教えた事と引き換えに何かを得たとしたら?お互い様で・・・常にこっちもアップデートしないと、いつか出がらし先生になる

のね。人に教えるってのも、中々こっちも必死なのね。さてそんなこんなの最後は蛸の椅子。

流石に3本立てではちょっとだけ。

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