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「平和の大切さ(終)~夫婦特攻隊~」

2024年06月26日 | 大分県
 週末読んだある雑誌のエッセイの中で、
「空に散った若い夫婦」
のことが描かれていました。
 
これまでいろんなことを学んでも、「満州」の戦いについてはよく知りませんでした。

このエッセイを読んで、もっと知ってみたいと思い、ネットで調べて、戦時中・戦後の満州のことが書かれている本を購入しました。

終戦直後の満州。
日ソ中立条約を破って攻め込んできたソ連軍により、日本人居留民の大虐殺が行われました。

満州駐留の日本陸軍「関東軍」は降伏命令に従い、ソ連軍との戦闘を放棄しました。

日本の戦闘機などは、ソ連に渡す約束ができていました。

その時、関東軍総司令部の降伏命令に背き、ソ連軍と戦うと決断した飛行兵たちがいたそうです。

満州南部の大虎山飛行場に駐屯していた飛行兵たちです。

ソ連軍が特攻攻撃を受けるのは初めてです。
特攻をすることによって、ソ連軍の進撃が一時的に止まれば、日本人居留民の逃避の時間を少しでも稼げると考えたからです。

飛行兵たちは、自らの命を犠牲にすることを決断したのです。
その中に、谷藤徹夫さんと朝子さん夫妻がいました。

ネットによると、
「夫から特攻の決意を告げられた朝子は、
「私も連れていってください」
と哀願しました。

ソ連兵から辱めを受け、仮に命を落とさずに済んだとしても、一生消えることのない疵を負うくらいなら、最愛の夫とともに敵軍に突撃して果てたいという新妻の切なる願いを徹夫は受け入れました。

そして、11人の特攻兵とともに朝子は散りました。

大虎山飛行場での目撃証言によれば、朝子は白いワンピース姿で特攻機に乗り込んだといいます。

戦後、生き残った元軍幹部は、
「あれは命令による特攻ではないから、単なる自殺行為だ」
と蔑み、女性を同乗させたことも「軍紀違反」と非難しました。

特攻兵、そして、谷藤夫妻さんたちは戦犯同然の扱いを受け、戦没者に名を連ねることも許されませんでした。

そのため谷藤さんの遺族は世間体を気にして、葬式さえ挙げていませんでした。

しかし、満州で同じ部隊だった戦友たちの尽力により、終戦から22年後の昭和42年、東京・世田谷観音に神州不滅特攻隊の慰霊碑が建立されました。

その後、厚生省(当時)が戦没者と認定をしたそうです。」

ネットの映画でも見ることができました。アマゾンプライムなどで、『妻と飛んだ特攻兵』を見て下さい。

映画なので、きれいに描かれている部分も多いのですが、終戦後におきた悲劇です。

戦後80年近くが経ちますが、いろんな角度から、歴史的な戦争の惨劇を知る必要があると感じます。