私の頭の中でちょっとした思いの切れ端が、しょっちゅう浮かんだり消えたりしています。その切れ端はぽっと浮かぶと、メモしようかと思ったり、メモするまで覚えていようと思ったり、「今車の運転中だから後でメモしよう」と思ったりしているうちに、思い出せなくなります。こんなことを若い時代からくり返してきました。
岩波新書『知的生産の技術』に感激して、梅棹式「B6判京大カード」を使った時期もありました。その時期は住所録も1件ごとに京大カードでした。何でもカード式でやってみようと、どんどんカードを作りました、でも後で利用することはなかった。
川喜多式KJ法もやりかけましたが、性に合いませんでした。
シャープのワープロが30万円ほどになったころ、熱転写リボンのワープロを買いました。日本語を機械で書ける時代が来るとは考えたこともなく、驚くとともに喜びました。それからはワープロばかり使うようになりました。
ワープロが大衆価格になる以前は、手書きでメモや本の抜書きをしていました。二十台の半ば以後は英文タイプのローマ字書きやひらかなタイプを部分的に利用したこともありました。
ブラザーがひらかなタイプを受注生産していまして、私がそれを使っていた時期、わかち書きで、ハガキや手紙を出していました。年長の知人からお叱りの電話が返ってきたことがあります。「手書きでないとぬくもりがない。ひらかなでは読みづらい。礼を欠く」。
ひらかなわかち書きは好きでした。童話の本のようにひらかなわかち書きで日本語を十分に表現できるなら、新しいやわらかな日本語ができると思います。頭の中がひらかなわかち書きになれば、頭の中身もそれにつれて変わるでしょう。でも、知人からのお叱りを受けてからのち、いつのまにかひらかなタイプから遠ざかってしまいました。
そしてあいかわらずメモやノートを書き散らして、部屋のどこかにまとまりなく放置して、そのままに終わっていました。私の頭の中で生産的に利用されることは、まずなかったのです。高校時分から今まで、それほど進歩していません。