1945(昭和20).3.26.朝 那覇郊外海上約35kmに位置する慶良間列島に米軍上陸、占領。住民の集団自決相次ぐ。
1945(昭和20).4.1. 米軍艦船が沖縄本島中部海岸線を埋める。夕方、上陸。
〈生き残った沖縄県民の証言〉
悪夢の一家全員虐殺 M H さん(女性 当時20歳)
※書中では本名記載になっています
出所:天皇百話 上の巻 P625(編者 鶴見俊輔・中川六平)
……あまりにも残酷、痛烈な体験だったせいでしょう。いまでも悪い夢をみたかのような現実をこえた経験だったように感じられるのです。
真栄平まえひらというにいた私たち一家は、日本軍に何度も壕を追い出され、ついに、自分たちの屋敷の下に穴を掘って避難していました。それ以前、父は砲弾にやられて死んだので、穴には、母と妹、二人の弟、わたしの五人がいました。昭和20年(1945年)5月下旬のある夜、午前3時ごろでしょう。たまたまその夜、私は隣の壕に泊まっていて、うちの穴には、残りの四人と隣の金城さんの家族が入ってました。
日本刀を握った日本兵が押しかけてきて、入り口で「出ろ。おまえたちはすぐ出て行け!」とどなる。入口近くに寝ていた母は、どなり声がよく理解できなかったらしく「何でしょうか……」と身を乗り出して聞こうとしたところを、問答無用とばかり、日本刀で首をはねられてしまったのです……。母の首は、穴の奥にいた金城さんの胸にぶつかり落ちたとか。
夜なかに胸さわぎがしてめざめ、水汲みに行くからといって隣の壕から穴に戻った私が、事件を知ったのは、かれこれ一時間ほどたってからです。穴の近くには、眼を光らせた日本兵がいっぱい屯たむろしています。私は恐怖心にかられ庭を走りました。
……「ヒーッ、ヒーッ」と声にならないうめき声が聞こえるので、顔を近づけてみると、妹と弟です。二人ともドロドロした血にまみれ、その血の海に腸がぐしゃぐしゃになってとび出ている……。しかも、すぐそばには下の弟が臓物をむきだしにしたまま、すでに息たえて……。
息の残っている妹と弟を近くの、兵隊のいない壕にかつぎこみ、必死で治療の方法を考えようと試みました。だが、そのかいもなく「姉ちゃん、もうダメだ。姉ちゃん、元気でね。元気で生きてね……」といいながら、三時間後に息を引きとったのです。
最後の三時間の苦悶のなかで、とぎれとぎれに二人が話してくれたところによると、母が首をはねられてから、すぐ妹は末の弟を背負い、もうひとりの弟の手をとって、私のいる壕へ逃げようとした。刀をふりかざした三人の兵隊が妹たちに追いつき、立ちすくんでいる妹と手を引かれていた弟との腹を、日本刀の刃先で何度もこじりあげ、背負われた弟も腹をえぐられたというんです。
……あまりにもムゴいその殺し方。正気の人間が、同じ邦くにの人間に、それもいたいけな子どもたちを、全身数十か所に切りつけて惨殺するなんて……。人間じゃない、あの人たちは……。
一瞬のうちに家族全員を失った私は、もう生きる望みもありません。二人の死体の横で、何回か自分の首を締めましたが、どうしても死ぬことができません。
昭和20年(1945年)6月24日に、私は一人でぼう然とさまよっているところを捕虜になりました。
〈生き残った沖縄県民の証言〉
御真影抱えて死んだ校長 U J さん(男性 当時沖縄県庁人口課長43歳)
※書中では本名記載になっています
出所:天皇百話 上の巻 P627(編者 鶴見俊輔・中川六平)
※御真影ごしんえい……昭和天皇の写真。沖縄戦時代の日本中の学校に安置
されていて、不敬の扱いはできなかった。
沖縄戦は、中央統率部の非情な作戦計画と、配備された将兵の対沖縄への差別と偏見の中で戦われた戦争だったのだから、県民にとって敵は米軍だけにとどまらず、時と場所によっては、友軍までが味方でない立場にまわったり、あるいはその友軍が、作戦に名をかりて無謀非情の措置をとるなど、県民はある地域や場所では、腹背ともに敵中におかれていたのだった。
各地域での住民の悲劇は、敵米軍によってもたらされたものではなく、そのことごとくが、友軍つまり日本軍によって加えられた悲劇であったことを思うと、住民にとって沖縄戦は、世界に類例のない二重の悲劇を背負わされた戦争だったのだ。
民が集結している洞窟で、日本刀や拳銃を擬して「兵隊が生きていなけりゃ、どうしてこの島が守れるか」とおどしつづけ、泣き叫ぶ子供や女を追っ払って、洞窟を独占した例は数限りなくある。
また、洞窟内に人の気配を感づかれると、米軍は火焔放射器を向けたり、あるいはガス弾を打ちこむので、それを恐れた兵隊が、泣きわめいている子供をその母の目の前で水溜まりに頭を突っこんで、窒息死させた実例もあった。
自身の生命を守るためには、いたいけな子供に、このような人的な手段をとることを平気でやってのけた軍人、これが当時国民の崇敬を集めていた皇軍将兵の実態だったのである。
あるところでは「御真影」を奉持している校長が日本軍によって射殺されている。北部地区の本部もとぶ国民学校長・照屋忠英氏がその人である。
照屋校長は敵の迫撃砲弾で夫人を失い、自身も爆風で耳が聞こえなくなっていた。彼は校長と言う責任者の立場で「御真影」を抱きかかえながら本部半島の伊豆味いずみ山中を彷徨ほうこうしていたが、ある日、友軍陣地に立ち寄って、かくまってくれるよう訴えた。もちろん「御真影」を奉持していることを告げた。
ところが「地方人を軍隊と同居させるわけにはいかぬ」と剣もホロロである。耳の聞こえない校長は、要領をえないまま、しばらく動こうとしなかったという。おそらく彼としては、天皇陛下の軍隊であるから、最上の礼をつくして、大事にかくまってくれるに違いない、と判断していたのではなかったろうか。
ところが、その部隊の冷たい態度や表情が、明らかに自分を拒否していることを見てとると、彼はしかたなく去らざるをえなくなった。
照屋校長がその場を立ち去ってまもなく、同陣地に激しい砲弾が集中した。兵隊たちはこの攻撃を、いまのスパイのしわざだと騒ぎだし、去り行く照屋校長に背後から銃弾を集中的に浴びせた。
ひん死の重症で血に染まった校長は、やっと住民避難場所へかろうじてたどり着いたものの、もう口はきけなくなっていた。口をもぐもぐさせながら、無念そうに息をひきとったというが、必死に訴えていた最期のことばは「誤解だ、私は誤解された」という悲痛な呻きであったという。
しかし死んだ彼の胸には、しっかと「御真影」が抱かれていた。もし彼が「御真影」を堅持せず、身軽な状態にあったとしたら、なにも日本陣地に立ち寄る必要もなかったろうし、したがって、スパイの嫌疑をかけられずにすんだはずだ。生命を賭して護った「御真影」のゆえに、彼は無残な最期をとげたのだった。