川本ちょっとメモ

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亡命チェチェン人の殺害相次ぐ プーチンはスターリン流儀の継承者なのか プーチン支援独裁者が後につづく

2021-06-27 02:15:06 | Weblog


■スターリン式処刑暗殺恐怖政治 

1878年 スターリンが生まれた。
1902年 反政府の過激活動家に育っていたスターリンは東シベリア流刑3年の
     刑を得た。

スターリンの流刑中に、所属するロシア社会民主労働党はメンシェヴィキとボルシェヴィキ(レーニン派)の二派に分かれて主導権を争っていた。スターリンはボルシェヴィキ派に属した。

3年間の流刑中も流刑が終わってからもスターリンの活動は過激で、ストライキやデモの組織化から武力闘争のリーダーにのし上がった。

スターリンは武力闘争をくり返して、いろいろな形で、あるいは強奪して、民間人から金を巻き上げた。その最たるものは銀行強盗であった。

こうしてボリシェヴィキの活動資金を稼ぐ活動家になってから、スターリンの地位はますます上がった。

ボリシェヴィキに対抗するメンシェヴィキは、その成り立ちの初めから、スターリン式の資金調達を禁止していたが、ボリシェヴィキが銀行強盗禁止を決議したのは1906年のことだった。

このあたり、明治維新前夜に強盗や放火など江戸市中を荒らした薩摩藩過激派を思い起こす。

1907年 スターリンはボリシェヴィキの禁止決議を無視して、大規模な銀行強
     盗をやってのけた。スターリンはロシア革命活動家中、第1級のテロ
     リストであった。

1908年 流刑。

1912年 ボリシェヴィキの中央委員候補に欠員が重なったことで、スターリン
     が補充として中央委員に選任された。以後、1953年の死去まで党中
     央委員でありつづけた。

1914年7月 第一次世界大戦始まる。
1917年 ロシア10月革命。レーニンが政府首班(人民委員会議議長)にな
     った。

レーニンはトロツキーとスターリンを特に重用して側近に置いた。

スターリンには秘密警察(チェーカー、後のKGB)の創設とソ連邦全域への組織拡張を任せた。レーニンは反革命との闘争の中で、密告を奨励し、処刑・暗殺を躊躇しなかった。その秘密警察の責任者がスターリンであった。ロシアのプーチン大統領も秘密警察KGB出身です。 

1922年 レーニンがスターリンを党書記長に任命した。
1923年 レーニン死去。

スターリンはレーニン死後約10年をかけて、数々のロシア革命の指導者たち(政敵)を追放していった。

1934年 スターリンの跡を継ぐ者として圧倒的に人気の高かったキーロフ政治
     局員が暗殺された。これを手始めとして1936年ごろまで大粛清が行
     われ、処刑された者の数は数十万人から200万人まで諸説ある。

スターリン死後の1956年フルシチョフ秘密報告によれば、1934年第17回党大会で選ばれた中央委員・同候補139名のうち98名が、1936年までの大粛清の次期に処刑された。処刑率は、中央委員・委員候補総数の70.5%。

第17回党大会の代議員全体を見ても、1,966名のうち1,108名が同様に処刑されている。処刑率は、代議員総数の56.3%。

スターリンに対立する指導者として著名なトロツキーは1937年からメキシコで亡命生活を送っていたが、1940年に亡命先自宅で暗殺された。殺害は、登山用ピッケルで頭を割るという残酷なものだった。  

   ※ここまでの内容のおおかたは、いくつかのWikipediaほかを参照しました。
     私は、ロシア革命やマルクスの考え方が、ボルシェヴィキの政治によって、  
    とんでもない方向にゆがめられたと考えています




  亡命チェチェン人殺害相次ぐ 欧州各地 
  ロシア・チェチェン当局関与か   毎日新聞 2021/6/27


 ロシア南部のチェチェン共和国からの亡命者らが欧州各地で殺害される事件が近年相次いでいる。

 犠牲者はチェチェン共和国のカディロフ首長やプーチン露大統領を批判してきた人物らで、チェチェンやロシアの当局の犯行への関与を疑う声が上がっている。【ロンドン服部正法】


 ●チェチェン人亡命者らが死傷した近年の主な事件 
 複数の英メディアなどによると、2019~20年に欧州各地で3人が殺害され、1人が殺されそうになった。

 ▽ロシアからの独立を目指すチェチェン独立派勢力の元司令官が独ベルリ
  ンで射殺(2019年8月)
 ▽チェチェンの反体制派ブロガーが仏リールで刺殺(2020年1月)
 ▽別の反体制派ブロガーがスウェーデンのイエブレで襲撃(2020年2月)
 ▽さらに別の反体制派ブロガーがオーストリアのウィーンで射殺(2020年
  7月)   ――された。

 他にも2017年10月、ウクライナのキエフ郊外で、ロシア側からプーチン氏の暗殺を企てたとして非難されていたチェチェン人とその妻が襲撃され、夫が負傷し妻が死亡する事件があった。

 英誌「ザ・ウイーク」は2003~2015年に、少なくとも8人のチェチェン人がトルコで殺害されたと報じている。

 ベルリンでの射殺事件では、容疑者として逮捕された男がロシアのパスポートでドイツに入国していたことが判明。

独検察はロシアあるいはチェチェンの当局が関与した証拠があると指摘した。独外務省は在独ロシア大使館の2外交官を追放している。

英紙タイムズによると、仏リールの事件で仏検察はリーダー格の容疑者をロシア人と見ている。

ウィーンの事件ではチェチェンから来た2容疑者が逮捕された。


チェチェン共和国はソ連末期の1991年に独立を宣言した。
ソ連の後継国となったロシアが1994年にチェチェンを攻撃して第1次チェチェン紛争が勃発。

1996年の停戦合意後、1999年に第2次紛争が始まると、ロシア軍は独立派を鎮圧し、2009年に紛争終結を宣言した。 2度の紛争で20万人以上が死亡したとも指摘される。

この間、独立派武装勢力はモスクワ劇場占拠事件(2002年)や北オセチア共和国での学校占拠事件(2004年)などを起こした。

プーチン氏の支持を受けた親露派のカディロフ氏は2007年に実権を掌握。反対派への弾圧や人権侵害が国際社会から批判されている。

一連のチェチェン人殺害・殺害未遂事件について、ロシアの情報機関や犯罪組織に詳しい英王立防衛安全保障研究所(RUSI)のマーク・ガレオッティ上級アソシエートフェローは毎日新聞の取材に対し、次の3つが混在していると指摘する。

(1)露情報機関によるとみられるケース
(2)カディロフ氏の配下が行ったとみられるケース
(3)ロシア、チェチェン両当局の共同作戦の可能性があるケース

ガレオッティ氏は「ロシア主導の作戦の場合、標的は露政府と敵対関係にある人物か、北カフカスにおけるイスラム過激派に関与を深めている人物」と推定。一方、カディロフ氏については「個人的な敵や、彼の怒りを招いた者などを標的にしている」と分析した。

ロシア政府は暗殺などの企てや工作について関与を否定しており、カディロフ氏も一連の事件について関与を否定している。




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