<お断り> 「自決」という言葉は軍隊用語として多用されていますので、一連の当ブログ「ノモンハン戦争」記事においては、「自決」の代わりに日常語の「自殺」を使うよう心がけています。その理由については、川本ちょっとメモ2023.7.7.「『自決』は軍隊用語です 『自殺』なのに事柄によって『自決』と言うのはなぜでしょうか」をクリックしてご覧ください。
ノモンハン戦域図の出所は岩波現代文庫『ノモンハンの戦い』で、著者シーシキンは旧ソ連 (現ロシア) の人です。ノモンハン戦域図はソ連の資料に基づいて書かれていますが、地形図の上に地名が記されているので、戦場の地形と主要戦場名の位置関係が正確にわかります。
ノモンハン戦域図 『ノモンハンの戦い P15』シーシキン他著(岩波現代文庫)
※1. ウズールノール …〈日本名〉ウズル水 ※2. ノモンハン・ブルド・オボー(上掲図 ●)
※3. 上掲図に地名記載がないが、〈日本名〉ノモンハン (日本軍中 継地点) は、ノモンハン・ブルド・
※3. 上掲図に地名記載がないが、〈日本名〉ノモンハン (日本軍中 継地点) は、ノモンハン・ブルド・
オボーより北にあり、さらにその北方向に日本軍拠点の〈日本名〉将軍廟がある。
※4. 〈日本名〉 ハルハ河 … 上掲図。河流が西北西方向からほぼ北に向きを変え、上掲図の外へ出て
※4. 〈日本名〉 ハルハ河 … 上掲図。河流が西北西方向からほぼ北に向きを変え、上掲図の外へ出て
まもなく西方向に再び向きを変えて、ボイル湖という大湖に流入する。
ノモンハン関連記述では、流入方向の右側を「右岸」または「東岸」、左
側を「左岸」または「西岸」と呼ぶ。
※5. ハイラースティーン河 …〈日本名〉ホルステン河 … 東から西へ流れてハルハ河に流入する。
※5. ハイラースティーン河 …〈日本名〉ホルステン河 … 東から西へ流れてハルハ河に流入する。
ノモ ンハン関連記述では、流入方側を「北岸」、南側を「南岸」と呼ぶ。
※6. 〈日本名〉川又 … ホルステン河がハルハ河に流入する合流地点。上掲図に地名記載なし。
※7. ノゴー高地 … 〈日本名〉ノロ高地 ≒ 742高地
※8. レミゾフ高地 … 〈日本名〉バルシャガル高地 ≒ 733高地 (バルシャガル高地の西部)
※9. フイ高地=721高地 ※10. バイン・ツァガーン … 日本側渡河点対岸の高地
※6. 〈日本名〉川又 … ホルステン河がハルハ河に流入する合流地点。上掲図に地名記載なし。
※7. ノゴー高地 … 〈日本名〉ノロ高地 ≒ 742高地
※8. レミゾフ高地 … 〈日本名〉バルシャガル高地 ≒ 733高地 (バルシャガル高地の西部)
※9. フイ高地=721高地 ※10. バイン・ツァガーン … 日本側渡河点対岸の高地
<ノモンハン周辺図> 『郷友連盟2007年6月海外研修 草原の戦跡を訪ねて(2)』から
http://www.goyuren.jp/mongol/mongol21.htm
http://www.goyuren.jp/mongol/mongol21.htm
※1 お手数ですが、拡大鏡でご覧願います。
※2 数字表記は高さを示していてこれを戦場地名とし、多くの場合下2桁をカタカナ読みして地名呼称
※2 数字表記は高さを示していてこれを戦場地名とし、多くの場合下2桁をカタカナ読みして地名呼称
としています。
たとえば三角山南の「744」高地は下2桁読みで「ヨヨ高地」と同一地です。
その東の「747」高地は、下2桁読み「ヨナ高地」と同一地です。
ニゲーソリモト北の「753」高地は二つあって、「西イミ高地」「東イミ高地」と同一地です。
※3 『ノモンハン戦域図』で、ハルハ河、ハイラースティーン河= (日本名) ホルステン河、フイ高地、
※3 『ノモンハン戦域図』で、ハルハ河、ハイラースティーン河= (日本名) ホルステン河、フイ高地、
ノロ高地の位置関係をよく見て、それから『ノモンハン周辺図』の同じ場所を確認すれば地図が
躍動してくると思います。
【 1939年8月20日 】
アルヴィン・D・クックス著『ノモンハン③ 第23師団の壊滅』P.11~30
<歩兵71連隊> (連隊長 森田徹大佐 8/8着任 8/26戦死)
<歩兵71連隊 第1大隊> (大隊長 杉立亀之丞少佐 8/28戦死)
・ ホルステン河 (上掲ノモンハン戦域図、ソ連名ハイラースティーン河) 南岸では71連隊主力がニ
ゲーソリモト確保、杉立第1大隊が744高地を確保、その左でニゲーソリモト南方の
747、748高地を同連隊の少数の諸隊が確保していた。
・ ソ連57狙撃師団がこれらを攻撃した。
この前線のソ連軍推定総兵力は、輸送車両200台に支援された歩兵1350人、戦車・装
甲車200両だった。
<歩兵71連隊 第3大隊> (大隊長 出射剛少佐 8/12着任、8/23戦死)
・ ハルハ河の「東渡わたし」と呼ばれる渡河地点の東側で、ソ連軍は4地点で橋梁の構築
を完了していた。このため744、747、757高地が特に猛攻撃に曝された。
・ 特に747高地が午後2時半ごろ深刻な状況に陥った。
森田71連隊長 (8/8着任 8/26戦死) が747高地に急派した第3大隊主力 (大隊長出射剛少佐
8/23戦死) は、高地と高地の間に浸透して日本軍防備線を突破した戦車20両、歩兵
300 のソ連部隊に遭遇した。
・ 戦闘は終日苛烈を極め、747高地は午後6時ごろ最期の様相を見せていたが、野戦重
砲兵第7連隊 (7/17参戦、連隊長 鷹司信煕大佐 8/8着任) の10センチカノン砲の掩護砲撃のお
かげで事態が好転した。ソ連軍は午後8時半ごろ退却した。
<第23師団 長谷部支隊 方面>
(長谷部理叡大佐:第8国境守備隊第2地区隊歩兵隊長→8/3支隊編成→8/4支隊長着任→停戦後9/20拳銃自殺)
・ 長谷部支隊 (支隊長 長谷部理叡大佐) は、ノロ高地とホルステン河 (上掲ノモンハン戦域図、ソ連
名ハイラースティーン河) にはさまれた歩兵71連隊 (連隊長 森田徹大佐 8/8新任、8/26戦死) の右
側に位置する地域、すなわちソ連82狙撃師団の攻撃目標地区を守備していた。長谷部
支隊に対峙するソ連軍は兵力1500、戦車50~60両。
<歩兵28連隊第2大隊 (8/4 長谷部支隊配属) >
・ 8月4日に長谷部支隊に配属されていた歩兵28連隊 (8/20戦場進出 連隊長 芦塚長蔵大佐) の
第2大隊 (大隊長 梶川富治少佐、8/25戦傷)が、長谷部支隊の左側面を確保していた。
・ 長谷部支隊方面では、午前6時半からソ連機の空襲が始まり、午前7時からソ連戦車
が歩28梶川第2大隊陣地を攻撃し、午前7時半からソ連砲兵部隊が野砲8門、15センチ 榴弾砲4門、15センチカノン砲2門で砲撃した。砲撃の硝煙や着弾爆発の粉塵で視界
は悪く、あまりにも息苦しく防毒面を着けたいほどであったという。
・ 午前9時、ソ連歩兵150ほどが歩28梶川第2大隊陣地200m手前まで接近、攻撃。大隊
は100m手前で敵の前進を阻止した。ソ連軍はその後も砲撃や20~30人ていどの小規模
攻撃を反復継続した。 ・ 一方、ソ連戦車十数両が754高地に浸透し、前線に散開する諸隊と歩28梶川第2大隊
後衛の連絡を攪乱して、包囲攻撃の企図が見えた。長谷部支隊方面では8月20日昼ごろ から日本軍の糧秣、弾薬、水の補給が困難になってきた。
・ 午後5時前、ソ連軍戦車4両が第2大隊第7中隊 (中隊長 斎藤清吉中尉、8/26戦死)前面に接
近してきた。同中隊の高島少尉正雄少尉は、ソ連軍戦車に肉薄攻撃班が突進する姿を視
認した。ソ連戦車1両が肉薄日本兵の手榴弾で擱座し、残りは退却した。退却戦車3両
は狙撃兵百人を伴って数時間後にもどってきたが、梶川第2大隊はこれも撃退した。
・ 梶川第2大隊長は上級司令部との連絡で、ソ連軍兵力2000、トラック300台、戦車
400~500両が、ホルステン河南岸に進出していることを知った。また師団命令により
71連隊の一部がニゲーソリモト方面に撤退していった。梶川少佐は死守するしかなかっ
た。
<長谷部支隊第1大隊> (大隊長 杉谷良夫中佐)
・ 長谷部支隊第1大隊は右側地区の中央部を守備していた。午前6時から1時間、ソ連軍
航空隊の戦爆連合130機の空爆を受けた。第1大隊は陣地前方に1機、ソ連軍散開線の後
方に1機撃墜した。
・ 午前7時20分、空爆に次いで、定石どおりソ連軍の砲撃が始まった。
午前9時過ぎ、日本軍航空隊20機がソ連軍砲兵隊を爆撃。砲撃は小止みになった。
午前9時30分、日本軍機が去るソ連軍の熾烈なじゅうたん砲撃が再開された。
長谷部支隊杉谷第1大隊は壕や遮蔽物に身を潜めて、ソ連軍歩兵の来襲を待った。
・ 午前10時30分、杉谷第1大隊の3個中隊に対してソ連軍歩兵隊の攻撃が始まった。
大隊を攻撃するソ連軍機関銃座は、確認できたものだけで18カ所。
ソ連歩兵の支援火器は連隊砲8門と迫撃砲12門。これらの支援戦車7、8両。
・ 杉谷第1大隊へのソ連軍砲兵の攻撃は、15センチカノン砲12門~24門、野砲8門
大隊を攻撃するソ連軍機関銃座は、確認できたものだけで18カ所。
ソ連歩兵の支援火器は連隊砲8門と迫撃砲12門。これらの支援戦車7、8両。
・ 杉谷第1大隊へのソ連軍砲兵の攻撃は、15センチカノン砲12門~24門、野砲8門
~16門。
・ 杉谷少佐の回想によると、8月20日第1大隊の戦場におけるソ連軍の戦死傷は370人。
・ 杉谷少佐の回想によると、8月20日第1大隊の戦場におけるソ連軍の戦死傷は370人。
対する日本軍は戦死8人、戦傷6人。めざましい戦いで守備陣地を守りぬいた。
<満洲国軍騎兵隊>
・ フイ高地 (721高地) の近くに配置されていた満洲国軍騎兵第2団と、第2団から10km
の距離に配置されていた満洲国軍騎兵第8団は、ソ連軍の支援砲撃、戦車、装甲車、
歩兵1000の攻撃を受けて、8月20日、早々と殲滅されてしまった。 ※満洲国軍の
「団」は「連隊」日本軍の「連隊」に相当する。
<フイ高地 第23師団井置支隊>
・ フイ高地を守っていた第23師団井置支隊 (支隊長 井置栄一中佐 井置第23師団捜索隊→7/3
第23師団井置支隊に編成、井置中佐は9/16日ソ停戦後の翌日9/17自殺) の編成は、速射砲4門、機関
銃数丁、山砲2門をともなう自動車化騎兵1個中隊、騎乗騎兵1個中隊 (4個小隊のうち1個
半欠) 、工兵1個中隊。第26連隊第2大隊第6中隊、第3大隊第9中隊、歩兵砲中隊。防戦
する井置支隊の兵力は800人に満たなかった。
これに対するソ連軍は第601狙撃連隊が正面に、第11戦車旅団が左翼に、第7装甲旅
団が右翼に進出した。ソ連軍の総攻撃初日、8月20日中にフイ高地はほぼ包囲された。
フイ高地の兵力差はあまりにも大き過ぎた。
・ フイ高地は8月20日午前5時ごろから終日、ソ連軍火砲数十門による砲撃にさらされ
た。日本軍陣地では黒煙におおわれて、視界が2、3メートルしかなかったという。
ある砲兵中隊長が砲弾の落下音で数えてみたところ、撃ちこまれる砲弾数は毎秒3発
であったという。
また、別の大尉の計算によると、落下榴散弾1発の破片が百個であると仮定して、
ソ連軍の各砲1門当たり砲弾保有千発を掛け合わせると、
落下砲弾数1秒当たり3発×60秒
=1分間当たり落下砲弾数180発×砲弾1発当たり破片数100個
=砲弾破片数1分間18000個、になる。
榴散弾は名前のとおり、1発の砲弾の着弾周辺に破片が飛散する。兵は次々に倒れ、
兵器は破壊され、壕も崩れ、陣地は穴だらけになった。
・ フイ高地には水源がなく、井置支隊は深さ5mほどの井戸を10本堀った。井戸水は飯
盒ですくうくらいの水しか出ず、23師団給水車が毎日通ってきた。8月20日、10本の井
戸すべて砲撃で崩れた。師団給水車は来なかった。陣地守備兵の飲み水が絶えた。
・ 午後8時、ソ連軍の砲撃が止んで塹壕から頭を上げて前方を見まわしたある中隊長は、
30~40mという至近距離から前進してくるソ連戦車と歩兵を認めた。
中隊の前方陣地守備の1個小隊が手榴弾で応戦。数十人のソ連歩兵が後退した。
これに対してソ連戦車が火炎放射器で応戦し、小隊は陣地ごと火炎に焼かれた。
前衛小隊が焼かれて、ソ連兵は勇躍突撃に移った。
この戦闘でソ連戦車1両が日本陣地塹壕に突っ込んで動けなくなり、捕獲された。
乗員は捕虜にされる前に自殺した。
<23師団直轄 歩兵第26連隊生田第1大隊>
(歩兵第26連隊長 須美新一郎大佐、大隊長 生田準三少佐 8/29戦死)
・ 歩26生田第1大隊は8月5日、フイ高地南にある731高地から日の丸高地の線に布陣し
た。 ──『静かなノモンハン』伊藤桂一著 講談社文庫P105 ──
・ 8月20日午前7時、ソ連軍戦車20両と歩兵200が生田第1大隊の防御線を突破し、白兵
戦になった。
予備兵力であった上村水那雄少佐 (歩26第2大隊長) は生田少佐と連絡を取るため伝令3
人を出したが、200mほど進んだところで3人ともソ連軍の砲火に斃れた。ソ連軍の砲
撃は量、密度ともに日本軍を卓越していた。
・ 8月20日夜11時、生田大隊第1中隊が必死の夜襲を試みたが、85人のうち65人を失っ
た。※生田大隊については当ブログ2023/9/14、9/18、12/9、の「ノモンハン生還衛生伍長1~3」参照
・ この日、生田大隊は兵力千四、五百の敵を撃退した。(朝日文庫『ノモンハン③』P30 )
<歩兵第64連隊金井塚第3大隊>
(歩兵第64連隊長 山県武光大佐 8/29戦場自殺、第3大隊長 金井塚勇吉少佐)
・ 8月20日午前7時以後3回、金井塚第3大隊陣地の左側面方向距離150m~200m地点
からソ連軍歩兵八百が攻撃してきた。ヤナギの並木から連絡壕や掩体壕に機関銃を浴び
せてきた。野砲や迫撃砲の砲弾も絶え間なく降ってきた。兵士たちは抗戦命令が出るま
で掩体壕に身を隠していた。
・ 数か所の地点で、五、六十人のソ連軍歩兵が30m以内にまで進出してきたときには、
双方から無我夢中になって投げ続ける手榴弾が飛び交った。ソ連軍の大部隊が南側から
投入され、夕方には第一線との連絡に苦しむようになった。
・ 金井塚第3大隊の兵力は、一時的に配属された者を含み将校27人、兵671人で、その
うち8月20日の戦死者は12人(うち将校1人)、戦傷者は20人だった。
ジューコフ中将指揮下のソ連軍第1軍団の総攻撃初日8月20日の日本軍は、ソ連軍の猛攻によく耐えました。ホルステン河南部の戦場でソ連軍は計画通りの進撃を達成しましたが、ホルステン河北部では、進撃計画は予定通りに進みませんでした。ソ連軍が特にフイ高地の奪取に手間取ったことは、よく知られています。
ノモンハン戦80余年後に何冊かの関連書を読んだに過ぎない私でさえ、第23師団、第6軍、関東軍の頑なで視野の偏った作戦指導が腹立たしいものに見えます。総攻撃10日後には、早くも日本軍は壊滅状態になっているのです。連隊以下の実戦部隊将兵の死闘は日ソ総合戦力差の大きさの前に潰えました。
【歩兵第71連隊の末期】 8月30日
・ 8月26日正午ごろ、接近するソ連軍を前にして、壕から立ち上がって双眼鏡で敵情を
見ながら号令をかけていた歩71森田連隊長が機関銃弾3発を頭と胸に受けて戦死した。
形勢不利な戦況のさなかであり、小野塚大尉が森田大佐の遺体を倒れた場所からくぼ地
に引きずりこみ、その場で土に埋めた。直ちに東宗治中佐が歩71連隊長(代理)に任命さ
れたが、8月30日戦死。
・ 8月30日午前遅く、第6軍司令部に到着した第23師団将校伝令の報告を受けた関東軍
作戦参謀辻正信少佐は「主として歩71、72連隊からなる小松原23師団の500人は山県支
隊の旧陣地付近で最後の死闘を行っている」と、関東軍に報告した。この時23師団の余
命は終わりつつあった。
・ 8月30日、東連隊本部と第1大隊や23師団戦闘指令所との距離は200m~300mくら
いだが、通信連絡が途絶えた。東連隊長は師団に2回、伝令を送った。伝令は全員がソ
連軍戦車の砲火で戦死。うち一人は顔に直撃弾を受けて、鉄兜もろとも頭部を吹き飛ば
された。陣地間を自由に動きまわるソ連軍戦車が見えた。
・ 8月30日午後5時近く、連隊旗警護隊長戦死。東宗治連隊長(代理)は遂に軍旗奉焼を決
意した。午後6時15分、くぼ地の端に掘ったかなり大きな掩蔽壕で奉焼を終えた。
・ 8月30日午後6時40分ごろ、連隊本部総勢17名の将兵は最期の突撃をした。東中佐は
軍刀を振りかざし壕から飛び出して敵戦車に突進しながら「東宗治中佐、本年49歳」と
叫んだ。17名の将兵は「わあっわあっ」と喊声を上げながら前方に駈けだして10mも走
らぬうちに、機関銃と手榴弾で一人残らずなぎ倒された。自殺行為そのものだった。
東中佐の当番兵曾根辻上等兵は突撃直前に手榴弾を左大腿部と左人指し指に受けて倒
れたが、陣前10mほどまで這って大声で中佐を探した。東中佐は腹部に手榴弾の傷が大
きく開いていたが、意識も言葉もはっきりしていた。そして曾根辻上等兵に伝令とし
て、軍旗奉焼と最期の突撃の状況を師団に報告するよう重ねて命じた。曾根辻は師団に
報告し、戦後まで生き残った。
花田第1大隊本部では、東中佐以下17名の突撃を見ていた。喊声も聞こえた。軍旗奉
焼を報告する伝令も到着した。花田大尉は全中隊に銃剣突撃を命じた。敵陣に飛びこん
で日本刀と銃剣で白兵戦になったが、敵兵は重機関銃を幾つも置いたまま逃げた。花田
第1大隊は23師団本部と共に生き延びた。
【歩兵第64連隊金井塚第3大隊】 8月24日
・ 8月23日から24日にかけて、歩兵第64連隊 (山県武光大佐 8/29戦場自殺) 第3大隊 (金井塚
勇吉少佐) は731高地に進出するよう命令された。歩兵第26連隊 (須美新一郎大佐) から抽出
した脆弱な生田第1大隊を助けるためであった。
・ 8月24日午前4時、生田大隊の戦闘区域に到着。731高地生田大隊の北西2km~5k
m、危機に瀕しているフイ高地井置支隊の南10kmという、ホルステン河北岸の最右翼
に金井塚第3大隊の陣地を設置することになった。
金井塚第3大隊が到着した地区のソ連軍兵力は歩兵数千、1個機械化旅団、重火器20
門とみられていた。早朝、師団級のソ連軍部隊がフイ高地の方向から前進しているのが
見られ、午前10時、金井塚第3大隊北東4キロの地点に到達し、第23師団の後方に向
かって進撃を続けていた。金井塚大隊に対するソ連軍兵力はごくわずかで抑えに過ぎな
かった。
・ 8月24日、歩兵64連隊長山県大佐がトラックで金井塚第3大隊陣地視察、将兵激励に
やってきて、即日、連隊戦闘指揮所に帰った。これが山県連隊長との最期の別れになっ
た。 ※山県武光大佐は8月29日、ホルステン河北岸新工兵橋に近い草原で、ソ連戦車群の皆
殺し攻撃に遭遇して自殺した。
9月16日ノモンハン戦争停戦、9月22日~28日の1週間、停戦協定に基づいてソ連軍監視下のホロンバイル平原を掘り戦死体収容を行い、4386体を収容することができた。山県武光大佐、伊勢高秀大佐、東宗治中佐、生田準三少佐らの戦死体もこの期間に発見・収容された。またハルハ河左岸にあった航空将校ほかの遺体59体がソ連側から返還された。収容された以上の遺体がノモンハン戦場となったモンゴルのホロンバイル平原の土となっていると思われる。(御田重宝著『人間の記録 ノモンハン戦 壊滅篇』徳間文庫P261 )
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