川本ちょっとメモ

★所感は、「手ざわり生活実感的」に目線を低く心がけています。
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ノモンハン生還衛生伍長(3) ノモンハン戦歴で金鵄勲章受章下士官でも、軍の監視下にあった

2023-12-09 15:58:08 | Weblog


2023-07-10
1時間42分の戦闘で沈没した戦艦大和の戦死3056名 輸送船富山丸の魚雷沈没あっという間の2個旅団消滅
2023-07-20
<ノモンハン捕虜帰還兵軍法会議> 自決未遂で重営倉3日の上等兵、敵前逃亡で禁錮2年10カ月の戦闘機曹長 
2023-08-22
<ノモンハン捕虜帰還将校2名> 日本軍の自決システム──撃墜されて捕虜 → 帰還 → 陸軍病院 → 軍説得の拳銃自殺
2023-09-04
<ノモンハン捕虜帰還兵> 壊滅陣地 → チタ捕虜収容所 → 陸軍病院 → ソ満国境へ転属 → 兵役満期除隊 → 軍属徴用で奉天へ
2023-09-14
ノモンハン生還衛生伍長(1) ノモンハン戦歴で金鵄勲章受章下士官でも、軍の監視下にあった
2023-09-18
ノモンハン生還衛生伍長(2) ノモンハン戦歴で金鵄勲章受章下士官でも、軍の監視下にあった




〇 旭川第7師団歩兵第26連隊 (1939・6・20  第23師団へ配属)
  連隊長    大佐  須見新一郎
 
 〇 第1大隊   (1939・8・1  第23師団長直轄へ配属 )
  大隊長    少佐  生田準三  着任 7・13   戦死 8・29    
   副官    少尉  渡部一雄  戦死 8・20
    付    軍医中尉  中村芳正
   第1中隊長 中尉  青木 香  転出 6・27
    〃    中尉  坂本竹雄  戦死 7・3
    〃(代) 准尉  能登与八郎
    〃(代) 少尉  野坂鉄男
    小隊長  少尉  前田正義  戦傷 7・3
     〃   中尉  牧野義勝  戦傷 7・3
     〃   准尉  井上喜一  戦傷 7・3
   第2中隊長 中尉  相田重松  戦死 7・4
    〃    中尉  中森光長  戦傷 8・25
    小隊長  少尉  古川一男  戦傷 7・5
     〃   少尉  岩崎咲雄  戦死 7・3
     〃   准尉  藤井亀次
   第3中隊長 中尉  鶴見筆上  着任8・1   戦死 8・20 
    〃    中尉  平野義雄
    小隊長  少尉  安達吉治  戦傷 7・3
     〃   少尉  古川義英
     〃   准尉  伊良原義晴
   第1機関銃中隊長 中尉 近藤幸治郎 転出 7・3
    〃(代) 少尉  秋野英二  転出 8・1
    〃    中尉  小林司郎  戦死 8・25
   連隊砲小隊長 中尉 長尾雄次

   歩兵第25連隊連隊砲中隊(8・5出動 歩兵第26連隊第1大隊に配属 ) 
   連隊砲中隊長 中尉 海辺政次郎  戦死8・29
      小隊長 少尉 沢田八衛   戦傷8・20  
       〃  少尉 山田四郎   戦傷8・25
     通信隊長 少尉 片岡義市

   *ソ連軍包囲下の死守陣地消耗戦闘で隊長・隊長代理もめまぐるしく替わっています。上
    掲表は将校だけですが、この表から、戦争がいかに多くの招集兵を死なせ、い かに多く
    の健常招集兵に身体障害者として生きる人生を強いるものか、お察しください。

 上の表は、アルヴィン・D・クックス著  朝日文庫1994.7.1.第1刷発行『ノモンハン④  教訓は生きなかった』P355, 356 記載の第26連隊第1大隊のノモンハン戦争従軍将校名簿です。生死未確認の者は「戦死」の分類に入っています。 


1939年
6月  ・小野寺哲也(22才)、半年間の下士官候補者教育隊卒業
     ・ 〃 チチハル待機第7師団軍医部衛生隊所属伍長勤務
6・20  ・チチハル待機中の第7師団に出動命令 歩兵第28連隊は待機
            ・歩兵第26連隊に第23師団配属命令、即日出動
7月  ・チチハルで、26連隊がソ連軍との対戦車戦で全滅したと噂が流れた
7・3  ・歩兵第26連隊第1大隊長安達千賀雄少佐、川又攻撃中に戦死 衛生兵も
      戦死、第1大隊兵員半減して731高地に退却
      ※川又 …… ハルハ河にホルステン河が流入する合流点、ソ連軍渡河施設がある
7・13  ・生田準三少佐が歩兵第26連隊第1大隊長に着任
7・20  ・歩兵第26連隊衛生兵欠員補充のため、小野寺伍長に26連隊配属命令
8・1  ・小野寺伍長、7月戦闘の痛手を補充中だったノロ高地の歩兵第26連隊
(須見
     部隊)本部に出頭。第1大隊本部付に配属。

8・5  ・第1大隊、本隊の歩兵26連隊指揮下から第23師団長直轄へ配属
    ・第1大隊、日の丸高地(ホルステン河北側=右岸)に向けて展開命令
    ・当日現在の第1大隊(生田大隊)兵力は第1、第2、第3中隊、連隊砲小
     隊、第1機関銃中隊、歩兵26連隊連隊砲中隊

8・7~8・20 鶴見第3中隊壊滅までは、9月14日付け記事「ノモンハン生還衛生伍長
(1) 」、8・20~8・25の生田第1大隊の状況は、9月18日付け記事「ノモンハン生還衛生伍長(2) 」  をご覧ください。 

  
8・25  ・この日から、敵戦車は榴散弾を使い始めた。この砲弾1発は、地上から10
     メートルくらいの高さで炸裂、10メートル四方くらいの面積に直径1セン
     チくらいの弾丸の雨を降らす。これは兵員の被害が大きく広がる。榴弾砲
     がこの方式だし、現代のクラスター爆弾がこの方式です。

    ・生田大隊の戦場出動時戦闘要員は約850名だったが、この日の戦闘可能人
     員は約120名に減っている。

    ・小野寺伍長は故郷北海道厚岸の鴨撃ちの光景を思い出した。猟師が散弾銃
     で鴨を撃つ。戦車砲の榴散弾はそれの大規模なもので、小野寺たちは水も
     食糧も戦車に対抗できる武器もない鴨だった。戦車砲や機銃掃射から逃れ
     るために走った。小野寺はもはや、死ぬことを恐れてはいなかった。衛生
     兵として多くの負傷者を見てきた彼は、負傷だけはしたくなかった。

8・28  ・生田大隊長は未明に、残兵を率いて731高地前面の敵陣へ肉弾夜襲を決行
     しようとしたができなかった。生き残り兵は手分けして負傷者の世話をし
     たり、わずかに水の出る柳の 根もとを掘りに出向いた。夜もない昼もない
        忙しい陣中生活のうちに夜が明けて、対戦車戦がまた始まった。

    ・大隊本部の鳴瀬・外山上等兵が大隊長の身をかばって戦車群の先頭車を擱
     座させたが、他戦車の機銃弾を浴びて二人とも戦死した。この後に敵の一
     部が陣地内に入ってきて、戦闘中に生田大隊長は大腿部に重傷を負った。

    ・大隊には戦う手立てが残っていない。夜襲しかなかった。生田大隊長の傷
     は重かったが、聯隊砲の海辺中尉と近藤曹長に介添えされて指揮をとるこ
     とになった。大隊の生き残り将校は、大隊長を含めて3名のみ。使える重
     火器は、10分しかもたない弾薬残量の重機1挺、擲弾筒1筒のみ。彼我の
     距離は50メートル。重機が射撃を始め、擲弾筒が榴弾と手榴弾を撃った。
     敵側から沸き立つような激しい応射が始まった。

    ・先頭に立つ海辺中尉の「突っ込めぇ」という叫び声で、死に物狂いの突撃
     が始まった。激しい混戦の後に敵が後退した。夜襲兵は敵の遺棄死体など
     から水筒や食料を奪い陣地に戻り、喉と腹を癒した。この夜、大隊兵は3
     度突撃をくり返し夜襲を終えて、陣地に落ち着いた。敵の包囲網は後退し
     たが、海辺中尉が戦死。生田大隊長は生きて陣地にもどった。この日、
     100名ほどの大隊残兵が60名に減った。

      ※歩兵第25連隊連隊砲中隊長 海辺政次郎中尉
       この連隊砲中隊は 8・5出動、 歩兵第26連隊第1大隊(生田大隊)に配属された。

8・29  ・午前1時、山県支隊(23師団歩兵64連隊)から伝令着。撤退命令を伝えた。
      ※生田大隊の原隊は旭川第7師団歩兵第26連隊(連隊長・須美新一郎大佐)。
       1939・6・20  第23師団へ配属。 同年8・1 小松原第23師団長直轄へ。 

    ・御田重宝著『ノモンハン戦壊滅篇』P164には、「29日午前2時、山県連隊
     長は独断で撤退命令を下した」とある。

    ・五味川純平『ノモンハン下』P182には、
      「山県大佐は野砲兵第13連隊長伊勢大佐と相談して、師団主力に合流する
     ためノモンハンに向って後退する決心をした」
      「8月29日午前2時、撤退命令を下達した」
      「撤退開始は8月29日午前3時であった」 ──とあります。

8・29   ・生田大隊は現在地731高地から4km南の山県支隊に合流することにな
     り、砂に埋めるゆとりのなかった遺体を浅く砂で覆って出発した。重傷者
     は体力の残っている者が交代で背負った。大隊の傷病者は全部で120名余
     り。

    ・山県部隊陣地には1000名ほどの兵員がいたが、半数は負傷兵だった。生田
     大隊を収容した山県部隊は闇の中を、ただちに満洲国領内の「将軍廟」目
     指して出発した。

    ・五味川純平著『ノモンハン下』P182には、行動を共にした部隊は、山県部
     隊(歩兵64連隊)本部、同第2大隊、同第9中隊、生田部隊(歩兵26連隊生田第1大
     隊の生き残り)、伊勢部隊(野砲兵13連隊)本部、同第2大隊(第4中隊欠)、同第8
     中隊、工兵2個小隊と記されている。この撤退行軍の中には、山県、伊勢両
     連隊長もいた。

8・29  ・ホルステン河からハルハ河にさしかかるあたりで、まだ昼にならないうち
     だったが、山県退却部隊はソ連軍戦車約50台の攻撃を受けた。戦車50台に
     対峙できるはずもなく、山県退却部隊は蹂躙されつくした。抵抗する兵士
     たちは刻々に死に絶えた。砂上に置き去りになった重傷者は戦車のキャタ
     ピラで轢きつぶされた。戦車隊は日が暮れるまでその場所を離れず、徹底
     的に日本兵を掃討した。「山県、伊勢部隊の末路は悲惨であった」と『ノ
     モンハン戦壊滅篇』P165が記している。、

    ・『ノモンハン下』P184
     「山県(歩64)、伊勢(野砲13)両連隊長、歩兵連隊副官、同連隊旗手代理、命
     令受領の工兵軍曹、兵1名とともに新工兵橋に近い元日本軍の野砲陣地
     の掩体壕内孤立し、敵歩・戦の包囲攻撃を受けた」

    ・『ノモンハン下』P185 連隊長自決
    「軍旗は焼かれ、両連隊長は自決した。8月29日午後4時半ごろであったら
      しい。他の2名の将校もこれに殉じた。下士官と兵は脱出して、両連隊長
      の自決を報告したという」

8・29午後~日暮れ
    ・夜になるまで身をひそめることができた者だけが、生き残った。小野寺伍
     長は数々のノモンハン戦闘を生き抜いてきたが、これほど無惨な犠牲を生
     んだ戦闘を見たことが無いと戦後に語った。

    ・小野寺伍長はたこつぼを見つけて、夜が来るまで一人そこにもぐってい
     た。少しでも頭を出せば執拗に銃撃される。しらみつぶしに掃討されてゆ
     く時間のなんと長いことだったか。耳には断続して聞こえる銃声砲声。近
     くを駆け回る戦車のキャタピラの音が遠のいたり近づいたりする不気味
     さ。ほかの人のことはまったくわからずに、無抵抗で身ひとつ隠れている
     つらさ。


8・29夜  戦場離脱
    ・日暮れまで身をひそめていた者たちが這い出して「将軍廟」への引き揚
      げを開始することになった。集合した人員は、歩行可能な負傷者を含め
      て300名ほどに激減した。うち生田大隊生き残りは8月5日戦場出動時
      850名のう36名だった。生田大隊長はいなかった。


 2015年8月9日、生田大隊長の子息まこと氏が731高地ほかの戦跡を訪れ、次のように語っています。(十勝毎日新聞2010年8月)

生田まこと氏 父の最後の場所は,旧工兵橋付近と思います。戦死公報では731高地となっています。遺体は停戦後発掘され、血染めの軍靴(皮の将校長靴)が遺骨とともに戻ってきました。


   ※「ノモンハン生還衛生伍長(4終)」は小野寺伍長の北海道帰国後の兵役を
      伝えます。出典は、伊藤桂一著『静かなノモンハン』です。



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