川本ちょっとメモ

★所感は、「手ざわり生活実感的」に目線を低く心がけています。
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ノモンハン生還衛生伍長(2) ノモンハン戦歴で金鵄勲章受章下士官でも、軍の監視下にあった

2023-09-18 23:12:49 | Weblog


2023-07-10
1時間42分の戦闘で沈没した戦艦大和の戦死3056名 輸送船富山丸の魚雷沈没あっという間の2個旅団消滅
2023-07-20
<ノモンハン捕虜帰還兵軍法会議> 自決未遂で重営倉3日の上等兵、敵前逃亡で禁錮2年10カ月の戦闘機曹長 
2023-08-22
<ノモンハン捕虜帰還将校2名> 日本軍の自決システム──撃墜されて捕虜 → 帰還 → 陸軍病院 → 軍説得の拳銃自殺
2023-09-04
<ノモンハン捕虜帰還兵> 壊滅陣地 → チタ捕虜収容所 → 陸軍病院 → ソ満国境へ転属 → 兵役満期除隊 → 軍属徴用で奉天へ
2023-09-14
ノモンハン生還衛生伍長(1) ノモンハン戦歴で金鵄勲章受章下士官でも、軍の監視下にあった




〇 旭川第7師団歩兵第26連隊 (1939・6・20  第23師団へ配属)
  連隊長    大佐  須見新一郎
 
 〇 第1大隊   (1939・8・1  第23師団長直轄へ配属 )
  大隊長    少佐  生田準三  着任 7・13   戦死 8・29    
   副官    少尉  渡部一雄  戦死 8・20
    付    軍医中尉  中村芳正
   第1中隊長 中尉  青木 香  転出 6・27
    〃    中尉  坂本竹雄  戦死 7・3
    〃(代) 准尉  能登与八郎
    〃(代) 少尉  野坂鉄男
    小隊長  少尉  前田正義  戦傷 7・3
     〃   中尉  牧野義勝  戦傷 7・3
     〃   准尉  井上喜一  戦傷 7・3
   第2中隊長 中尉  相田重松  戦死 7・4
    〃    中尉  中森光長  戦傷 8・25
    小隊長  少尉  古川一男  戦傷 7・5
     〃   少尉  岩崎咲雄  戦死 7・3
     〃   准尉  藤井亀次
   第3中隊長 中尉  鶴見筆上  着任8・1   戦死 8・20 
    〃    中尉  平野義雄
    小隊長  少尉  安達吉治  戦傷 7・3
     〃   少尉  古川義英
     〃   准尉  伊良原義晴
   第1機関銃中隊長 中尉 近藤幸治郎 転出 7・3
    〃(代) 少尉  秋野英二  転出 8・1
    〃    中尉  小林司郎  戦死 8・25
   連隊砲小隊長 中尉 長尾雄次

   歩兵第25連隊連隊砲中隊(8・5出動 歩兵第26連隊第1大隊に配属 ) 
   連隊砲中隊長 中尉 海辺政次郎  戦死8・29
      小隊長 少尉 沢田八衛   戦傷8・20  
       〃  少尉 山田四郎   戦傷8・25
     通信隊長 少尉 片岡義市

   *第1機関銃中隊長近藤幸治郎中尉は安達第1大隊長の7月3日戦死を受けて、大尉昇進の
    うえで第1機関銃中隊長から第1大隊長代理となり、7月13日に生田準三少佐の第1大
    隊長着任を受けて大隊長代理を解かれ、生田大隊長の8月29日戦死とともに第1大隊は
    全滅した、という流れではないかと思います。全滅とはいえ、どんな場合でも 生き抜い
    た兵や負傷兵がいます。
  **第1大隊第3中隊長小林司郎中尉は7月3日負傷、後任は牧野竹治中尉。ほぼ1カ月後、
    第26連隊旗手鶴見筆上少尉が中尉昇進のうえで8月1日、第3中隊長着任、8月20日戦
    死。
 ***ソ連軍包囲下の死守陣地消耗戦闘で隊長・隊長代理もめまぐるしく替わっています。上
    掲表は将校だけですが、この表から、戦争がいかに多くの招集兵を死なせ、い かに多く
    の健常招集兵に身体障害者として生きる人生を強いるものか、お察しください。

 上の表は、アルヴィン・D・クックス著  朝日文庫1994.7.1.第1刷発行『ノモンハン④  教訓は生きなかった』P355, 356 記載の第26連隊第1大隊のノモンハン戦争従軍将校名簿です。生死未確認の者は「戦死」の分類に入っています。 


1939年
6月  ・小野寺哲也(22才)、半年間の下士官候補者教育隊卒業
     ・ 〃 チチハル待機第7師団軍医部衛生隊所属伍長勤務
6・20  ・チチハル待機中の第7師団に出動命令 歩兵第28連隊は待機
          ・歩兵第26連隊に第23師団配属命令、即日出動
7月  ・チチハルで、26連隊がソ連軍との対戦車戦で全滅したと噂が流れた
7・3  ・歩兵第26連隊第1大隊長安達千賀雄少佐、川又攻撃中に戦死 衛生兵も
      戦死、第1大隊兵員半減して731高地に退却
      ※川又 …… ハルハ河にホルステン河が流入する合流点、ソ連軍渡河施設がある
7・13  ・生田準三少佐が歩兵第26連隊第1大隊長に着任
7・20  ・歩兵第26連隊衛生兵欠員補充のため、小野寺伍長に26連隊配属命令

8・1  ・小野寺伍長、ノロ高地の歩兵第26連隊(須見部隊)本部に到着
     出頭 小野寺は第1大隊本部付、井上は第2大隊本部付になる
    ・このころ26連隊の全部隊はノロ高地で7月戦闘の痛手を補充中だった

8・5  ・第1大隊、本隊の歩兵26連隊指揮下から第23師団長直轄へ配属
    ・第1大隊、日の丸高地(ホルステン河北側=右岸)に向けて展開命令
    ・当日現在の第1大隊(生田大隊)兵力は第1、第2、第3中隊、連隊砲小
     隊、第1機関銃中隊、歩兵26連隊連隊砲中隊

8・7~8・20 鶴見第3中隊壊滅までは、前回9月14日付け記事「ノモンハン生還衛生伍長(1) 」をご覧ください。


8・20  ・この日早朝、日本軍の全前線にわたってソ連軍のよく準備された総攻撃が
     始まり、日本軍は8月31日にはソ連・モンゴルが主張するモンゴル領土内
     から駆逐された。

8・20  ・どの陣地もソ連軍に包囲されていた。ソ連軍は馬蹄形の包囲網を敷き、必
     ず1カ所開口部を設けていた。日本軍陣地に攻め入ってする白兵戦の無駄
     死にを避けたかった。日本軍は周辺のどの陣地でも榴弾砲や戦車砲、火炎
     放射戦車、重機関銃などの脅威にさらされていて、なすすべもなかった。

    ・小野寺伍長は第3中隊と大隊本部との連絡が途絶えたので、ここに派遣さ
     れた。中隊では伝令兵を3人、大隊本部へ送ったという。3人ともたどり
     つけなかった。包囲側の開口部には、戦車・装甲車・重機が待ち受けてい
     る。小野寺が生きて中隊にたどりつけたことが不思議だった。

    ・8月20日夜明け前の暗いうちに小野寺は第3中隊に着いた。そして同じ日
     の夕刻に、「なんとかうまく切りぬけて行ってくれ」という中隊長の命に
     よって、小野寺は大隊に帰らねばならなかった。どうせ死ぬんだ。それな
     ら、これから夜襲に出ていく中隊のみんなといっしょに死にたい。小野寺
     の願いは許されなかった。 …… 20日の夜闇が始まってから中隊陣地を抜
     け出た。行きは6時間かかったが、それよりもっと早く第1大隊に帰り着
     いた、と思う。

    ・第3中隊の陣地は直径50mほどのくぼ地で、戦車と機関銃にびっしりと囲
     まれている。味方の重機関銃が激しく撃ち出している瞬間を見て、小野寺
     伍長は陣地の一角から飛び出した。少し駈けて、砲弾穴のひとつに飛びこ
     み、あとは勘だけを頼りに、飛び出しては隠れ、隠れてはまた駈けた。走
     っていて機銃弾が足もとを濯(あら)ってくるとき、走り切るか、遮蔽物を
     みつけて倒れこんで隠れるか。無我夢中で駈けた。8月5日ごろからのわず
     かな日数のうちに本能が鍛えられていると、小野寺は思った。

8・20 ・小野寺伍長は第3中隊の危急を一刻も早く知らせたい一念で走りつづけ
     た。思ったよりかなり早く20日夜のうちに大隊本部に着いて、生田大隊長
     に報告した。生田は「鶴見(中隊長)を見捨てはせん」と大声で言い、すぐ
     に 幹部集合を命じた。

    ・死んでも指が動いている
     報告してすぐに小野寺は負傷兵の手当てを始めた。そこへ、渡部副官(大隊
     副官少尉)被弾、と連絡が来て100mほど離れた壕へ走った。機銃弾が鉄帽
     の側面から貫通して即死。頭にごぶし大の穴が開いていた。ところが死ん
     でしまっている渡部少尉の両手の指が、何かを握りしめたがっているよう
     にしきりに動いている。小野寺は初めて見た、指が生き残っている。渡部
     についていた伝令の松田が「死んでも指は動くのですか」と聞いた。小野
     寺伍長が脈拍と心臓を確認しても確かに死んでいた。死にたくない気持ち
     が指先に残ったんだろうと小野寺は松田と話し合った。小野寺も指先は最
     期まで生き残るのだろうと思った。ノモンハンでは猛烈な砲撃と機銃の弾
     幕下で戦死した遺体を回収できなかった。とにかくどんなにひどい戦いで
     あっても、最低限、小指と認識票だけは切り取って持ち帰るのが居合わせ
     た兵士の慣わしになっていた。

8・21 ・大隊本部と第2中隊は、第3中隊救援のため第1中隊の位置に移動した。
     第1中隊の位置へ第3中隊生き残りで歩行可能な負傷者がたどり着いて、
     鶴見中尉以下玉砕の模様を伝えた。

8・21 ・夜、生田大隊長が訓示した。「大隊は今夜半、夜襲を決行して、第3中隊
     の奪われた陣地を奪回する。諸士の健闘を祈る」。大隊は行動不能の重傷
     者を陣地内に残して出発した。小野寺の医療嚢は空になったままでガーゼ
     も薬品もない。小野寺は衛生兵としてでなく戦える歩兵を希望して、大隊
     といっしょに出発した。

    ・出発してまもなく大隊はソ連軍との遭遇戦になった。大隊は歩兵銃と手榴
     弾で戦うしか方法がない。敵は大砲と戦車砲と重機関銃を存分に撃つ。戦
     車隊の後ろには歩兵がつづく。50発に1発撃ちだす機関銃の曳光弾が無数
     に乱れ飛ぶ。赤色の照明弾が打ち上げられて、草原を真昼のように明るく
     照らす。小野寺たちは照明弾などが明るい間、草や凹地に隠れ、消えると
     跳ね出た。前面に立ちはだかる戦車に向かって3回、突入攻撃をした。

    ・突入3回目のあと、ソ連兵が後退した。22日朝明けにまた砲撃、戦車、歩
     兵が押し寄せてくる。生田大隊も夜のうちに、20日までいた731高地へ後
     退した。大隊全員がたがいに支え合うようにして、第1中隊の負傷者をも
     収容して後退した。

    ・ノモンハン8月戦闘では、歩兵が戦車戦をやった。小野寺たちは戦車にと
     りついてはよじのぼり、戦車砲に手榴弾を結びつけて爆発させた。爆発で
     砲の照準が狂って役に立たなくなる。機銃の場合だと銃身が曲がって使用
     不能になる。戦車自体が燃えることもある。しかし、戦車にのぼると、戦
     車の下の穴から拳銃で狙い撃たれる。ほかには、不意に砲塔を廻され振り
     落とされて、キャタピラに轢かれるか、機銃弾に濯われる。

    ・戦車が擱座しても、戦車から逃げ出すソ連兵はめったにいなかった。擱座
     した戦車の中で、銃を撃つ姿勢のまま死んでいる者が多かった。草原に放
     置されている戦車を覗くと、銃を撃つ姿勢をしているその眼に無数の蛆を
     わかせ、なお前方を見つめているソ連兵を、小野寺伍長は見たことがあ
     る。ソ連兵もまた、必死で戦っていた。

8・22 ・大隊850名が今は120名になった。731高地が孤立して何日になるのか。
     他部隊との連絡もほとんど絶えたまま。食糧・水もまったくなくなった。
     戦死敵兵の持ち物から食料や水を取ってくる。陣地にいると毎日毎日激し
     い砲撃の犠牲者が重なる。

    ・22日夜半、天の助けが舞い降りた。食糧弾薬の輸送トラックが1台、孤立
     陣地に迷いこんできた。山県支隊(歩兵64連隊)への輸送トラックだった
     が、ソ連軍の包囲網が厳しくて近寄れなかった。やむなくどこでもいいか
     ら食糧弾薬をなんとか下せそうな所へたどり着いてみたら生田第1大隊だ
     った。戦車を擱座させた大隊の重傷者5名を乗せて、輸送トラックは帰っ
     ていった。

8・23 ・戦車30台が攻めてきた。大隊はこのうち15台を擱座させた。敵歩兵の遺
     棄死体は数十に及んだ。大隊の熟練度は大したものだ。この日の朝、神田
     軍医が左肩に貫通銃創を受けて壕の底に横たわっていた。軍医はずいぶん
     多くの人の手当てに奔命してきたが、自分が仆れたときは何の薬物もな
     く、傷口を縛って寝ていることしかできなかった。

8・24 ・この日も戦車戦で明け暮れた。

8・25 ・敵は重砲による攻撃を集中したあと、戦車50台と約2000の歩兵で包囲環
     を縮めてきた。それでも敵は我が陣地を攻め取ることができなかった。

    ・25日の戦闘で、機関銃隊の船木見習士官は敵の銃火の中を、遺棄されてい
     る水冷式機関銃に駆け寄り、ラジエーターの水を水筒に抜き取ってきて負
     傷者に与えた。船木はその後の対戦車戦で戦死した。

    ・重傷を負った第1機関銃中隊長小林司郎中尉を、片桐上等兵が背負って引
     き揚げてくるとき、一弾が二人を貫いた。二人とも戦死した。片桐は機関
     銃中隊でただひとりの衛生兵だった。小野寺伍長は、自分もやれるだけの
     ことはやってみんなと一緒に死んでゆこう、これほど酷く厳しい戦いを、
     この草原で戦っている仲間だけがわかり合っていればそれでいいと思うよ
     うになった。

    ・25日早朝。小野寺伍長ら10人余りで、砂地でなく固い所があると聞いた
     場所へ壕堀に出かけた。そこへ、戦車20台ほどが前進してきた。身を隠す
     砲弾穴が手近になかったので、地形を選んで散開した。小野寺たちは先頭
     に来た戦車3台に飛びつき、手榴弾を砲身に結びつけて戦った。2台が擱
     座した。あとの戦車が横にひろがって集中射撃してきた。このとき1門だ
     け残っていた連隊砲が陣地から出てきて戦車群のうち2台を炎上させた。
     すぐに敵戦車砲のお返しが集中して、連隊砲は沈黙した。


    ──次回、「ノモンハン生還衛生伍長(3)」につづきます。


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