2023-06-23
きょうは「沖縄慰霊の日」 住民集団自殺の例を紹介します その1 慶留間島
2023-06-24
沖縄戦 住民集団自殺の例を紹介します その2 座間味島
2023-06-25
沖縄戦 住民集団自殺の例を紹介します その3終 渡嘉敷島、伊江島
2023-06-27
沖縄戦、軍司令官の自死は「自決」 住民の自死は「集団自殺」でも、沖縄戦に限って「集団自決」と言います
きょうは「沖縄慰霊の日」 住民集団自殺の例を紹介します その1 慶留間島
2023-06-24
沖縄戦 住民集団自殺の例を紹介します その2 座間味島
2023-06-25
沖縄戦 住民集団自殺の例を紹介します その3終 渡嘉敷島、伊江島
2023-06-27
沖縄戦、軍司令官の自死は「自決」 住民の自死は「集団自殺」でも、沖縄戦に限って「集団自決」と言います
2023-06-29
「自殺」を意味することばについて 私は「自決」ということばを好みません
2023-07-07
[自決] は軍隊用語です 「自殺」なのに事柄によって「自決」と言うのはなぜでしょうか
「自殺」を意味することばについて 私は「自決」ということばを好みません
2023-07-07
[自決] は軍隊用語です 「自殺」なのに事柄によって「自決」と言うのはなぜでしょうか
〇 戦艦大和と輸送船富山丸
1939年(昭和14年) ノモンハン戦に関わる [自決] や [突撃死] の事例を紹介すると、前回に予告したのですが、その前に沖縄戦関係の艦船で2つの事例を見ていただきたく紹介いたします。
一つは沖縄戦関係の艦船沈没では著名すぎるほど著名な戦艦大和です。
そしてもう一つ知っていただきたいのが陸軍部隊輸送船富山丸の沈没です。
〇 戦艦大和、米艦載機との戦闘1時間42分で沈没
戦艦大和は1945年(昭和20)年4月7日、米艦載機の集中攻撃を受けて、屋久島西方海域で戦闘開始から1時間42分後に、沈没しました。
戦死者数や生存者数には異説もあるのですが、毎日新聞2020.4.7.記事「戦艦大和の沈没から沈没から75年 …… 」では、乗員3332名、生存者276名と書いています。
この数字は、国立国会図書館が全国の図書館等と協同で構築しているデータベース https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000064489
で三重県立図書館が答えている人数と同じであり、ここではこの数字を採ります。
で三重県立図書館が答えている人数と同じであり、ここではこの数字を採ります。
そうしますと、戦艦大和の戦死者 3332名ー276名=3056名
戦艦大和のことを書いた本は山ほどあります。ここで話す必要のないことですが、有賀艦長や伊藤第2艦隊司令長官も大和とともに沈んだ。
<戦闘始まる>
7日 12:08、機関故障で艦隊から遅れていた「朝霧」から入電「敵機ト交戦中」。
12:21、「朝霧」から入電「90度方向ニ敵機30数機ヲ探知ス」。
この後通信途絶。艦とともに乗組員326名全員、消息不明。
7日 12:41、米軍機第一波113機の攻撃始まる。
まず「濱風」被弾、沈没。つづいて「矢矧」被弾、航行不能。
13:20、米軍機第二波167機来襲。
14:23、戦艦「大和」沈没。第1波来襲からたった1時間42分後の沈没。
<第1艦橋の惨状>
藤原英美は伊藤司令長官がいる第1艦橋で20倍双眼望遠鏡3番見張の任務についていた。第1艦橋にある視界を確保するための窓が三方にある。そこを米軍機に機銃掃射された。藤原の右隣にいた兵がグエッという異様なうめき声をあげて倒れた。振り向くと、胴体が血を噴き出しながら倒れていて、首は目と口を開けたまま数メートル離れたところに転がっていた。彼が爆弾の破片にやられたのか機銃掃射にやられたのかわからないが、ほかにも数人が倒れて床に血が流れていた。(岩波新書「戦艦大和 生還者たちの証言から」2007.8.21. 1刷 P.87)
<艦内溺死──生きて海水から脱出できず>
大村茂良は応急員だった。持ち場は右舷後部。戦友が下甲板の一室にいた。「浸水してきたハッチを開けてくれ!」と、まだ通じていた艦内電話で訴えてくる。大村が階段を下りていくと、ハッチのあたりは深く浸水しており、近づけない。「すまん、開けられない」と応じると、戦友は「万歳!」と叫んで通信を絶った。(岩波新書「戦艦大和 生還者たちの証言から」2007.8.21. 1刷 P.89)
〇 輸送船富山丸、魚雷沈没 2個旅団の将兵、無抵抗で溺死壊滅
西大洋漁業所属 7,089総トン。1944(昭和19)年6月29日 07:25、徳之島亀津 北東12km付近で米潜水艦の魚雷3本を受けて沈没。(weblio=wikipediaに拠る)
戦力不足の沖縄守備第32軍が待っていた2個旅団は無抵抗のまま、あっという間に海没しました。
輸送船富山丸の戦死者(遺族会提供資料=愛媛県護国神社HP 2014.6.30.)
独立混成第44旅団第1歩兵隊 635名
第2歩兵隊 762名
砲兵隊 152名
工兵隊 63名 第44旅団 計 1612名
独立混成第45旅団歩兵298大隊 324名
歩兵299大隊 419名
歩兵300大隊 407名
歩兵301大隊 404名
工兵隊 150名 第45旅団 計 1704名
沖縄第32軍兵器勤務隊 171名
129野戦飛行場設定隊 127名
宮古島陸軍病院 2名
合計 3616名 (船舶輸送間における遭難部隊資料 陸軍)
レファレンス協同データベースの「富山丸」の項には、魚雷攻撃を受けて「乗船部隊約4,600名のうち約3,700名が行方不明となった 」と記載されています。
富山丸一船の死者数が3600であっても3700であっても、戦艦大和の死者数を大幅に上回る大事件に違いはありません。一船の死亡者数としては世界最大級の被害ですが、当時、この戦没は軍命令で極秘にされました。
同じ沖縄防衛に関わる軍の消滅にあって、〈戦艦大和の戦闘たった1時間42分の消滅〉と〈富山丸2個旅団あっという間の消滅〉の処遇は、軍隊の持つ闇を露わにしています。後世の私から見れば、2つの消滅の共通点は、無益な強制死に追い込まれた運命の悲哀です。
[自決] にもこのような軍隊の闇があります。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます