2024-07-09
梅原猛哲学者先生、法隆寺に怨霊はいないと西岡法隆寺棟梁がおっしゃっています
2024-09-04
梅原猛哲学者先生の法隆寺怨霊閉じこめ説、貴重な物証「光背を救世観音像後頭部に釘打ち付け」は反事実、誤認でした
梅原猛哲学者先生、法隆寺に怨霊はいないと西岡法隆寺棟梁がおっしゃっています
2024-09-04
梅原猛哲学者先生の法隆寺怨霊閉じこめ説、貴重な物証「光背を救世観音像後頭部に釘打ち付け」は反事実、誤認でした
青年時代にたいへん影響を受け、その後のわたしの価値観や世界観の基本線になっている本の一つに、『文明の生態史観』(梅棹忠夫著) があります。
◆ 梅原は哲学者という芸能人の一種のスタイルをつくった
◆ 梅原がそうで、あれは完全に芸能人です
◆ 梅原がそうで、あれは完全に芸能人です
おもしろいことに、『梅棹忠夫語る』(日経新書2010.9.15.1刷、話し手 梅棹忠夫、聞き手 小山修三) の中で、梅原 猛氏に触れている箇所があります。梅棹先生は1986年、わずか一日のうちに視界が暗くなり失明しました。原因不明。以後の著述活動は口述筆記に拠っています。
※梅棹忠夫 1920.6.13.~2010.7.3. 生態学・文化人類学 京都大学理学博士
※※小山修三 1939.3.24.~2022.10.26. 文化人類学 カリフォルニア大学博士
※※※梅原 猛 1925.3.20.~2019.1.12. 西洋哲学 京都大学学士
梅棹先生は第二次世界大戦当時、中国河北省張家口市在の西北研究所が組織したモンゴル調査隊に従事していました。そして敗戦になり中国から叩き出されて (これは梅棹自身の表現です)、大変な苦労をして帰国しました。
帰国してみると大学周りのみんなが意気消沈しています。梅棹一人が元気よく、国民がいる、国は滅びていない、日本はこれから伸びる、と説いてまわりました。それで「旭日昇天教」だと言われました。
小山修三氏は『梅棹忠夫語る』の中で、「旭日昇天教」と呼ばれた話題を持ち出しました。ところが話題は小山氏の予期せぬ方向に展開しました。
『梅棹忠夫 語る』第9章 生きることは挫折の連続である P199
小山 ぼくは、梅棹さんより梅原猛さんの方が宗教家としては向いていると思
います。
梅棹 梅原は哲学という芸能の一ジャンルを確立したんや。哲学者という芸能
人の一種のスタイルをつくった。
小山 最近、哲学ばやりですね。
梅棹 そやね。それは芸能や。梅原がそうで、あれは完全に芸能人です。話が
うまい。身振り手振りがおかしくて。ほんまにもう、聞かせるよ。迫力が
あってね。
小山 (笑)。だけど、厳しい言葉だな。こそこそしながら「あいつは芸能やで」
とか、やっかみでいやなこと言うやつはいるんですけれどね。
梅棹 哲学という芸能としてのジャンルを確率した。たいしたもんや。
梅原猛哲学者先生は梅原古代学とも呼ばれる怨霊シリーズで多くのファンを集め、出版界の高い評価と立派な賞を得ました。しかしその実態は哲学者であることを呼び物にした文芸作品なのです。
◆ 怨霊シリーズに魅入られて 本職哲学に寿命届かず
梅原猛哲学者先生は、人生の貴重な年月を怨霊シリーズにとらわれすぎたようです。本職の哲学のことについて心を残して、94歳でお亡くなりになりました。梅原猛哲学者先生の業績を高く評価している哲学者やすいゆたか氏が次のように書いています。
下記出所サイトアドレス←クリック
今日、お話しする梅原猛先生も、哲学者なんですが、純粋哲学的な著作より
も、梅原日本学ということで、日本古代史や日本文化論を根底的に捉え返され
た著作が多いのです。
そこに一から捉え返そうとする態度が貫かれていたら、それは哲学と言える
わけです。
でも当人は哲学プロパーの著作が少ないことを気にかけていて、九十歳過ぎ
てから本格的な哲学書を書くのだと言われていました。
※これは自身への慰めにすぎず、書かないままに終わりました。
早稲田大名誉教授大橋一章氏が、仏教新聞である2019年6月7日中外日報に「梅原猛 著『隠された十字架』をめぐって」←クリック を寄稿しています。美術史家の大橋氏は落ち着いた学術的な批判を書いています。そして文中で次のようにため息をもらしています。大橋氏にとってあたりまえのことを、梅原氏にまちがいとして指摘することは、実りのない疲れる作業なのです。
(大橋一章)『隠された十字架』が『古寺巡礼』や『大和古寺風物誌』の類書で
あれば、研究者が反論を書くこともなかった。
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