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シロモジのころ

2020-12-11 | 断想

庭のシロモジがやっと色づいている。

もう初冬だが、暖かい当地では、我が家の庭では、落葉樹の色づきが毎年、年末になる。

この木は2016年に庭をリフォームした時に、私の好みで植えてもらった。これがわが庭のシンボルツリーです。

それまでは姑様が40年以上前に植えた、センダン、クスノキ、ヤツデなど。姑様には悪いが、私はこの三つの木がいずれも好きでなかった。

幸い、長年揉めていた隣地との境界線が、所有者が変わってすんなり確定し、塀を作り替えるのに合わせて、思い切って庭も造り替えた。

って、偉そうですが、狭い狭い庭です。街中だから贅沢言えませんが、田舎の広い家と庭で育った身には、狭いのは何よりも辛い。辛いけど、与えられた条件でなるだけ心地よく。そう思うしかないわけです。

庭を自由に考える。好きな木が植えられる。ああ、何と幸せなことでしょう。

三か所から見積もり取り、お洒落で値段も手ごろな業者に依頼。打ち合わせに事務所へ行った。

あちらはアメリカハナミズキ、またはシマトネリコを勧めたんだったかな。あまりにありふれている。もう一つは、オーストラリアかどこかにある常緑の木だったかな。こちらもときめかず。

シンボルツリーはシロモジにして、あとはナツハゼとシデコブシ、と自分の好きな木ばかり言うと、ちょっと待ってくださいと植物図鑑のようなものを引っ張り出して名前確認。

取り寄せられますか?

それは大丈夫です。で、他はどうしますか。

他って?

通路とか。タイル貼ってプロバンス風とか。。。

それもお断りする。

プロバンス・・・悪くはないけど、古い和風建築に合いそうにもないので。


庭を作り替えて4年、木も大きくなり、次第に庭らしくなってきた。

シロモジも大きくなった。そして、毎年、シロモジが色づくころになると懐かしい人たちを思い出す。

シロモジはクスノキ科の落葉樹で、広島湾沿いの西半分、標高500メートルくらいの山によくみられる。例えば極楽寺山とか。

1996年、地元公民館の自然観察の講座の後、観察会のグループができた。中心になったのがながいさん。実名出すのはもういいでしょう。亡くなられてもう19年になるから。

とても、とても、とっても楽しい会だった。毎月一度、結構ハードな山に登って植物観察。説明は長井さん、または中学校の理科の先生だった男性。いろいろな山でいろいろなことを教えてもらった。それまでの私は家にこもって文章書いたり、本読んだりばかりの生活。人とあまり話すこともなく、結果、人とあまり話せない人間になっていた。

40歳過ぎて病気が見つかり、子宮と卵巣の全摘をした。お腹の中が癒着しまくっていて、手術は大変だったらしい。退院後は歩くことから始めて徐々に体力回復に努めるうちに、体を動かす楽しさに目覚める。ずっと長い間、動物としての必要最小限の動きさえしていなかったのかもしれない。

その反動からか、山を歩いたりするのがとても楽しく、その流れで自然に植物観察の会にも参加した。

会は今まで出会ったことのないタイプの人がほとんどだった。めんどくさいこと言わない。人をけなさない。えらそげに言わない。などなど。

そのなかでも代表のながいさんは、男性ながら全然威張らず気配りのできるやさしい人で人望が厚かった。例によって、私はここでも会報作成。よく打ち合わせをした。

追々分かったことは、前年九州大学を受験して浪人、結局広島の地に落ち着いた。だから同じ年に同じ学校へ入学していたことを後で知る。今でも不思議に思う。あの入学式の会場に、長井さんも、我が夫も、私も、席が離れていたけど、一緒にいたことが。みんな10代の子供。この私にもそんな年の頃があったのをいつもは忘れている。

会で出会った当時は離婚して一人暮らし、子供さんは元の奥さんの方にいるというのは誰か別の人から聞いたと思う。


数年間、楽しく活動した。電車バスで行ける山しか行かなかったけれど、極楽寺は当時、山頂近くの温泉施設の送迎のバスがあり、施設を利用することで乗せてもらった。

時は11月、キャンプ場の周辺の山は黄色に染まったシロモジの群落、行けども行けども、明るい黄色のシロモジの木。きれいな眺めだった。それまで知らなかったので、三裂する葉も珍しく、いっぺんで好きになった木。

あらたにさんが大きなホウの葉を拾うと、国定公園だったか国立公園だったかなので隠して持ちなさいと注意する真面目な人だった。面白かったあらたにさんももう故人になられた。。。


夜、突然電話がかかってきたのです。

今日はご主人に相談があると言われるので受話器渡すと、話している夫の顔色が次第に変わる。ああ、ここまで書くうちに当時のこと思い出して胸がバクバクする。

内科ならどこでも。そこから大きい病院に紹介になります。と、夫は近所の医院を紹介していた。

一月くらいして、会合でその先生と一緒になった夫は、一年くらいですね。親せきの方?と言われたとのこと。

一年・・・ご本人は知っているのだろうか。あんなに元気なのにと信じられなかった。その時は、よその男の人のことだけど、一人の時に思い切り泣いた。

それからの一年間は入退院を繰り返しながら、やはり一年くらいで亡くなった。アルバイトだった仕事ももうやめていた。今思えば、会に関わることで最後の気力を保っていたのではないかと思う。

会報のことで病院に相談に行くと、ベッドにはいない。スニーカーはいて、病棟の階段を往復していたこともある。その時は庭のヤマボウシの花を一輪持参するととても喜んでくれた。

亡くなったのは2001年の9月。6月の広島城の観察会には一時帰宅して、自転車で参加していた。体がきつそうなので送ると言うと、それまでのように遠慮せず、乗ってくれた。車はその頃、X-Trailだったので自転車一台、余裕で積めた。(ああ、あの車、また乗りたいなあ。。。。)

車のところまで自転車押して一緒に行くつもりだったけど、停めた自転車の横で待っていて、もう余計に歩く体力が残っていなかったのかもしれません。一人暮らしで、家に帰ってあのあと夕食はどうされたのかといまだに気になります。昼はチューブ入りの栄養剤のようなもので済ませていたから余計に。

それが最後の参加でした。そして私がながいさんを見たのもそれが最後になりました。享年53歳か54歳、誕生日知らないので。若いですねぇ。

うちの夫も交えて数人で山へ行ったこともあります。曽場が城山の急な下山路で躊躇している友達に「滑り落ちる前に道を横切る」とコツを言うのですが、あとでそんな軽業みたいなとこと言って笑い合いました。なんであんなに楽しかったのか、女子学生みたいにけらけら笑っていたのです。

いゃあ、長話になりました。会はしばらく続きましたが、やがて参加者も減り、解散しました。会費は月100円、会計報告、会計監査も怠りなく、残金はずっと最後の会計係が持っていましたが、東日本大震災に寄付したと聞きました。いい終わり方だったと思います。

会では何よりも、自然の中を気の合った人と歩く楽しさ、それを教えてもらったと思います。

人生はいかに自分を楽しくさせるか、楽しく過ごした方が絶対にいいんですから、その方法の一つを教えてもらいました。今でもお付き合いしている友達の何人かは、この会で知り合った人。みんな19年分年取りましたが、会うとあの頃のように楽しく話します。

シロモジ・・・以前は極楽寺のシロモジに秋になると会いに行ってたけど、今は運転が億劫で行かない。途中360度のループがあったり、と険しい山岳ルートです。

その代わり庭に一本シロモジの木を。それを眺めて昔を思い出しています。

長話陳謝。

コメント (4)
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