あれダメ、これダメ、全部ダメと、どこへも行けない自粛の毎日、ばあちゃんはさすがに飽きたので、車で人のいないところへ行きます。
江波山へいつもと違うコース。
山の北側に車を停めてぐるりと半周の予定。
向こう広島市中心部方面。
江波山は元は島。少しずつ北から埋め立ててきて、明治時代に本土とつながったそうです。
昔は漁村。細い路地を行く。
衣羽神社の前に来ました。
昔はこの付近が海岸線?
石段。
白いサザンカとおみくじ。文久年間の石柱あり。
振り返る。
最近、同世代の人が歩かない、歩けないと言うので、不安になる私。
一日一度、とりあえず歩いてみる。歩いて、まだ歩けることを確認。
本殿。江波は漁村。漁村の守り神。
山頂付近の真言宗の寺院。
観音様。
1975年頃まで気象台。今は記念館で、気象のいろいろ学べます。
昭和10年の建築。
気象台らしく、いかめしさ、豪華さよりも、すっきりと軽快でモダン。
ベランダのデザイン。
シニア50円を支払って見学です。私以外に人影なし。係員は二人。
小さな窓のステンドグラス。
説明。
床のデザイン。タイルと研ぎ出しの床。
廊下。
天井アーチ。
柱の飾り。
懐かしくて新しい。
研ぎ出しとタイルの組み合わせ。85年前のオリジナルの床。
二階へ。
踊り場。
広島都市高速と江波皿山。
鏡で遊ぶ。
脚長ばあちゃん。
続いて資料室へ。
被爆当日の観測日誌。
風向き、焼失地域などの様子。
以後の被爆資料はこれが参考になっていると思われます。
原爆投下の爆心地からは南へ7キロ前後でしょうか。
北側の窓ガラスが割れて、その破片が反対側の壁に突き刺さっています。
1945年のガラス片。
帰ります。庇の支柱が一本のデザイン。
筒を重ねたデザイン。
外も研ぎ出し。
石材の代わりにコンクリートに大粒の砂を混ぜ、表面を平らにならして石に見せる。
材料費は安いけれど、熟練の職人技かなと思います。
以前はよくこんな仕上げを見た気がします。
見ると懐かしい。記憶が呼び戻され、体が反応します。
帰ります。
江波山気象館、遠景。
冬のバーベキューする人あり。暑くなく、虫が来ないので楽かもしれませんね。寒くなると火に当たる。
広島江波山桜。
八重咲のヤマザクラ。ここにだけ見られる固有種。
来年も花をたくさんつけてほしいものです。
帰ります。名残の紅葉。
今年もあと10日余り。街へ出ないので、なかなか歳末は気分になりませんが、来年こそはコロナも収まり、いい年になりますように。
夫の趣味の会の忘年会が流れ、代わりに、同じ店で家族の忘年会のつもりで食事することにしました。
写真はホームページからお借りしました。
このお店は自前で釣り舟を持ち、申し込めば釣り場に案内してもらい、釣りの指導もあるようです。
市中心部は県より時短営業の要請が出たので、地域には該当していませんがこわごわ行ってみると、普通にお客さんが入り、普通に食事していました。
私たちはカウンター席に。カウンターにはアクリル板の仕切りがあります。
お任せコースお願いしたら予約制、結局、握り寿司お任せコースに。
付き出し(イカとフキの炊き合わせ。おいしかった)、刺身、茶わん蒸し、カキフライ、握り寿司の盛り合わせにアラの味噌汁のコース。お魚がどれも新鮮でおいしかった。
ホームページにあるお任せコースはもっと品数多くていつもギブアップするのですが、前日までの予約制に、値段もホームページより上がっていました。がそれでもリーズナブル。
昨夜は店の方全員、マスクしていました。
私は連日のお粥でお腹空いていたので、久しぶりの日本酒に酔ってしまい、家まで歩くのも大変で、夫に掴まってたら、歩きにくいと文句言われたので、じゃ支えてと後ろから腕を持ってもらう。
いゃあ、これで付き合ってくれと言われたうんと言いそう、危ない~と言うも相手無言。帰ってから一時間ほどホットカーペットの上で毛布かぶって爆睡。
以上、ささやかな忘年会の報告でした。
昨夜の費用は二人でお酒込みで5,500円。感動のお値段。普段着で行けばいいのが楽。
このお店は2015年の年始、当時参加していた公民館のグループの「女子会」で初めて行き、あまりにおいしいので、翌日夫と、以後、家族でもよく行く。
海に面した町の底力・・・店がなくならないことを切に願う。
我が家は横後ろ賃貸マンション、前半分も賃貸マンションで、13時ころまでしか陽が当たらない。
今の時期になると一階は午後から暗くて寒い。それできょう掃除のついでに模様替えしました。
今冬、初コタツです。パソコンも、鉢植も一緒に移動です。
登山用のダウンジャケットにフリースの帽子かぶって上半身は冬山装備。それでコタツに入ると、しみじみとくつろぐのは日本人だから?
欠点はまったりしすぎて、急ぎの用事以外はまあいいかと、のんびりとした人格に変わること。コタツから家やビルに区切られた狭い空を見上げていると、あの冬この冬、過ぎし日々のあれこれの思い出が浮かんでは消え、消えては浮かび、それを楽しんでいる自分がいる。
これを人は老いの境地と言うのだろうか。自分の関わること、自分が決めなければならないことも少しずつ少なくなって、寂しいというよりは気が楽。何事も若い人にお任せするのがよろしい。
みんな年末どうしているのかなあ・・・と思ってみる。思うだけで、よほど親しくないとあえて連絡とらない。
コロナが収まったら、あちこち旅行して、友達と会って、楽しいこといっぱいしたいけど、今はおとなしく。
広島市では医療現場がひっ迫しているらしい。感染しても自宅待機の人が多数いるらしい。これ以上負荷をかけないよう、おとなしく引き続き、家で出来ることをします。
これは10年くらい前、どこだったかな・・・まとめてセール品買ってきた。
クリスマスカードは、ある時期とても大切なものだった。年賀状よりももっとパーソナルなもの、という位置づけ。友達がせっせと出していて感化されたんだけど。
それはまた次の機会に思い出します。
広島市は新型コロナの感染が広がっているそうで、おとなしくしています。
本日の立ち回り先、午前8時前後に歩いて数分のスーパーのみ。の予定でしたが、昼間、パン焼き機でお餅作ったので、感染者が出て休校中の孫にクリスマスプレゼントと一緒に届けました。
孫二人は雑誌買ってもらって、その付録を作っていた。上の子とは二か月以上ぶり、下の子とも一か月ぶりですが、二人は工作に夢中で、プレゼントに見向きもしません。
サンタのブーツが幼稚なのかな。
「きれいなおばあちゃんのこと、忘れてなかった?」と聞くと「そりゃ忘れてないよ。きれいじゃないけど」ですって。
英単語カルタと世界国旗カルタは読み上げの音声付き。暮れの忙しい時、お正月のくつろぎたい時、大人が読まなくていいようにとの工夫でしょうか。
おもちゃの注文は難しいので、自分で買いなさいとお金渡す。
滞在は20分くらい。早々に帰って来る。
やれやれ、きょうも展示会の準備です。
かがるのは織ったのと同じ糸で。これで目立ちません。
毎日少しずつ。でも目標ができて頑張っています。
久しぶりの夕食の写真。昼間、お餅に頑張ったので手抜き。いつも手抜きですが。
ご飯の代わりのお粥。茶粥です。
ハブ茶、通称エビスグサというマメ科の植物の実からに出すお茶です。エビスグサは暖かい地方に生えているそうで、香川県三豊市の粟島の「ぎんなん」という民宿で教えていただきました。島には道端にたくさんありました。
数年前、これでおかゆ作って食べていたら3か月だったかで、夫は7kg、私は5kg減量しました。半年くらいでさすがに飽きて普通のご飯に戻し、今はそれより1.5kgくらい増えましたが、MAXよりは3.5kg減を何とか維持しています。
エビスグサは漢方の決明子の成分が入ってるそうで。デトックス効果ありとか。ほんとかな?
まあ、ただの白粥だと病院食だけど、色と香り付きで何とか食べられます。
自分用に一合、鍋で炊いて、今の時期なのでそのまま放置して3日くらいに分けて食べます。胃もたれしなくて楽です。
今日は餡餅一個半食べたので帳消しですが。
私って、こんなんばっかり。
縫物道具を入れている引き出しの奥から見つけた妊娠暦。何年か前、夫実家から勝手に持ち出し。
最終月経の日から出産予定日がすぐにわかる便利な道具です。形はメンソレータム入れていたような缶で、もちろん蓋と実に離れます。
使い方は、例えば・・・
わっ、画像が大きすぎた。
10/20が最終月経初日とします。
たぶん今の時期、妊娠したかなあと思うならこのあたりだと思うので。
その日付に目盛りを合わせて、
そのまま妊娠42週目の終わりを見ます。その日が予定日です。
この暦によると8/19日ですね。
お腹の中で大きくなった赤ちゃんのいよいよ誕生。おめでとう~
昨日あたりから急に寒くなった。本日、広島で6℃。新型コロナもあるし、年末だし、あまり出歩かずに、家でできることをしている。
昨日、来月展示する場所の現在の展示の様子を見に行った。ヒートンあり、スタンド型の看板あり、軽い作品は台紙に貼って、その台紙を押しピンでとめていた。
うーーーむ、姑様の藍染の大作、押しピンで穴開けるのは抵抗がある。それに布製品、何か所か止めても垂れてくるので、横棒入れた方がよさそう。
藍染めは和風なので、織の教室が解散するとき、先生のご主人が竹の暖簾棒で作ってくれた二本の綾棒が使えそう。
そのほかにはごく細いヒノキの丸棒、私の織りは太い丸棒の両端に、ろくろで切った木の飾りをつける。それは東急ハンズで買ってきた。
本日はもう一度作品を並べて、どんな棒がどれだけいるか考え、近所のホームセンターで材料調達、昼休みに夫に加工いろいろしてもらった。
午後からは織った作品の端を縫って、棒を通しやすくしたけれど、全然よくないので、裏から布を縫いつけることにした。
展示用に織ってないので、縁の平織りの部分が狭く、窮屈な感じ。
まだ日があるので焦らずに、毎日少しずつ進める予定。
この後、一年に一度の年末調整の計算がある。これは今年は曜日の配列がいいので、24日の夜までにすればいい・・・はず。
なんて暢気に構えていた7,8年前のある年末、姑様が敷居のわずか2㎝くらいの段差に躓いて転倒、電話があって夫と二人で行くと痛がっているので、翌朝、整形外科へ連れて行ったことがある。
手首、骨折していましたね。
一年のうち、いちばん何かがあったら困る日になんでまたと、思ったけど、でも何とかなったのでしょう。そのあとの記憶がないから。
まあ今年もダッシュで頑張ります。今年の売り上げはコロナの影響で、開闢以来の地味なものでしたが、来年はどうでしょうか。食べるに困らなければ、余分なお金は不幸の元、といつも負け惜しみを言う私。
寒いのが好きかと聞かれれば、もちろん好きではないけれど、冬本番になって、きりりと寒くなる最初の日には、遠い冬のあれこれを思い出して、寒さに喚起される思いがあるわけです。
息子が中学生だった30年くらい前、
「火鉢って何?」と聞かれたことがある。そうかあ、見たことないのでこの子たちは火鉢さえ分からなくなっているんだとしみじみしながら説明したら「そんなんで暖かい?」とまた聞かれた。
「暖かくはないけどね、手先を温めるだけ」
「ふうん」と納得しない風だった。
子供のころ、家に練炭火鉢と言うものがあった。火鉢型の練炭コンロ、縁が広くて平たく、食器置いて簡単な食事もできた。
真ん中には水炊きやすき焼きの鍋をかける。我が家は水炊きが多かったかな。台所の椅子を周りに置いて、食べていた。日曜日の夜は父がよく焼き肉をしてくれた。着ているのは母が縫ったウールの着物と羽織。
練炭置いてないときは、お盆乗せてテーブルに。我が家のクリスマスケーキは火のない練炭火鉢の上によく置いていた。
石油ストーブが普及すると、火鉢型のストーブを実家では使っていた。これは火が近くて煮炊きに便利、暖房もできるという優れものだった。近所のホームセンターに10年くらい前まであったけど、今日見に行ったらもう売っていなかった。残念。
台所が狭くなるし、何よりもダサいのでとうとう買わなかったけど、今になれば残念。
日曜日に焼き肉作ってくれた父は、性格は温厚でゆかいな人。
初め農業、途中から勤めに出て、土地の一部をつぶして貸家も建てて、時代の波に頑張って乗って行った人。
火鉢からいろんなとこと思い出したけど、今生きていたら、同じ年寄りとして話が合うような気がする。って、死んだ人はそこからは年取らないわけで、私もあと7年で父の年に追いつく。とりあえずは追いつくことが目標。
さて、毎日少しずつ作品展の準備。
きょうはマフラーの房の始末をします。織ってレース付けたままだった縁の糸をより合わせます。
教室ではこんな道具使っていました。教室が終わる時、手を挙げた人が持って帰った。
私は後で買えばいいわと高をくくっていたら、織の道具の常で高価、それで昨年これを買いました。
去年は929円で買えたのです。今は2,450円になっています。
使い方はこちらを参照に。
2019年7月8日のブログ記事一覧-ブログ (goo.ne.jp)
何とか左の一枚、仕上げましたが、右はまだできません。
一年分、要領が悪くなり、一年分、遅くなっている。愕然。
どうするかなあ~
このほかにかねて懸案の機織り教室、まず一日体験から始めるつもりだったけど、このコロナの流行でしばらく無理のようですね。
100円くらいでいいと思っていたけど、それでは安すぎる。あまり大勢来てほしくないので、最低千円、それで平織り、綾織、組織織のコースターを織ってもらう・・・って、いったいいつになったらできるのでしょう。
いきなり教室始めるって難しいけど、今回はたまたま展示をするのでそれをとっかかりとして。
習っていた先生が聞かれたら、百年早いと言われそう。私、分かりが悪くて劣等生だったから。
でもできるようになれば頑張ってみる。決まればまたお知らせします。
新型コロナ感染者が急増しています。町を歩いて歳末気分も味わいたいけど、今年は自粛。人の少ないところへ出かけます。
旧水上警察署。1909年建設。木造の洋風建築。
あとであの前通ります。
公園の中に。
凱旋館とは?
復員兵を迎える施設?
遠景。傾いている。。。
日清戦争の時ですね。
戦争のための物資をこの港から送り出した。
一時保管する倉庫もたくさんあったことでしょう。
広島駅からは鉄道で物資を港に運ぶ。
山陽本線は日清戦争の直前に広島まで開通。そこから港まで17日(18日の説もあるらしい)で線路を引く。
以後、港から出征した兵士は太平洋戦争の終わるまで、百万人と何かで読んだ記憶があります。(未確認)
「港」の歌碑。
空も港も夜は晴れて・・・の小学唱歌は広島港が舞台だそうで、暁橋付近の光景を歌ったそうです。
宇品線のプラットホームと倉庫の一部が保存されています。
右は広島都市高速。道路は一部、宇品線のプラットホームの場所を通っています。
私が嫁に来た頃は倉庫がたくさんありました。
高校で美術部員だった夫は、よく倉庫を描きに来たそうです。
夫は大学生のころは上手でしたが、もう50年以上描いていません。
もっぱら私の絵の批評。はいと素直に聞けない私との間で喧嘩勃発。最近は見せません。
プラットホーム。昔の石畳、スーツケース引くのは難しそう。
壁の一部。
一万トンバースへ。クルーズ船も来なくなって静か。
凧揚げ。
線路のモニュメント。
近藤芳美の歌碑。
陸軍桟橋とここを呼ばれて還らぬ死に兵ら発ちにき記憶をば継げ
一部、陸軍桟橋が残されています。
こちらも石畳。
20年くらい前の朝日歌壇だったか、中国歌壇だったかに、恋人、婚約者だったかも、の出征を見送った宇品の港。その港の見えるマンションの部屋を買って、私は一人、ここで年老いていくという内容の短歌があって、印象に残っています。
今は海上保安庁、第六管区海上保安本部の船着き場になっています。
不審船は118番、憶えておきましょう。
六管桟橋。
旧水上警察署。玄関周りだけ、最近塗り替えたらしい。
小説「黒い雨」では主人公が、被爆当日の昼、宇品の警察署で白米のご飯とたくあんの食事を呼ばれる場面があります。おそらくこの場所がモデルでは?
説明。
暁橋遠景。矢印付近が橋です。
毛利氏入城の16世紀末、広島デルタの海岸線は今の平和公園の辺り、それから干拓を繰り返し、明治時代には、元からある島=元宇品と地続きになります。
しかし深い入り江が左右にできて海水が滞留し、水質が悪くなったので、一度地続きになった場所を開削して橋を架けました。
それが暁橋です。
以後海水が自由に流れて水質は元に戻った・・・という風に私は理解しています。
フランスのモンサンミッシェルもこのパターンですね。橋にしてトラムを走らせ、海水の通りをよくする工事、もう完成したのでしょうか。
ああ、それにしても新型コロナです。広島市の感染者が、先週末は人口あたりに直すと東京都の1.5倍になると聞きました。急速に広がっています。
知事が先日会見して、来月三日までの帰省や会食の自粛、不要不急の外出の自粛を要請しました。また公共施設も一斉に閉めています。
今、政治家に今必要なのは、大きな方針を決め、それに沿って細部を詰めていく作業ではないでしょうか。
今の総理、何をしたいのか見えてきません。人の批判するとこのブログの品がなくなるけど、動画の中で受けるためかふざけた発言する総理、ああ、この国はダメだわと絶望、能力も責任感もない首相にこの温厚な私も←どこが!心底、怒りを感じました。
大体、一国の首相が、動画で意見を配信するなんて責任逃れもいいところ。追及されたくないんでしょうか。想定されていない質問が出ると、答えられないうろたえぶり=無能が全国にリアルタイムで流されて困るのでしょうか。
初めから逃げ腰ですね。
動画に投稿するのは無名の人間がすること。総理が記者会見すると言えばメディアが来ます。答えられないのでそれが困るのでしょうか。
逃げ隠れせずに堂々としてほしい。総理なんだからしっかりしてほしい。全く情けない。
中国では感染者は今はほぼゼロだそうです。
感染者はほぼゼロ!? 中国が実施するコロナ対策「四早」(NEWS ポストセブン) - Yahoo!ニュース
こういうニュースには必ず、嘘だろうという意見が出てきますが、報道管制をそこまで敷けるのか、まだ流行しているのにごまかせるのか、私には判断が付きかねます。
朝のワイドショー見ているとGo Toやめるかどうかに問題を矮小化している印象。問題はそこにあるのではなく、政府が専門家などの助言を参考に、今、政府としてはどうすればいいかを考え、中心になる施策をまず打ち出す。枝葉はそのあとです。
まずは国民の命を守る。人の移動を止めて、感染を抑える。今お金を投入すべきは医療現場。中国のようにボランティアを募集して、医療現場の雑務をしてもらう。など、なんで考えられん?
無能な政府に殺されないよう、今以上に徹底的に自己防衛したいと思います。
本日の立ち回り先、銀行、スーパー、港。家族=夫以外と会話せず。
先日のシロモジで思い出し、広島城の木を見に行くことにしました。
電車バス乗るのはまたまた怖い。駐車場も停められるかどうか不安なので自転車で行きます。
向こう広島駅方面。京橋川右岸を行く。
途中で立ち寄る。本日、お休み。
先日の地元新聞にお客さんが増えた、県外の人が写真撮っていくとの話が。
90代と70代の母娘のお二人でしている店とのことです。
今度行ってみようかな~
県立美術館の前から西へ、高裁の前通ると地下道くぐらずに済む。
クスノキやクロガネモチが多いけど、珍しい木も。
八重桜だったかな。10年以上来ていない。
日清戦争の大本営跡と車廻し。
礎石だけ残る。
春にまた来てみましょう。
名残の紅葉。
葉が落ちると冬も本番。
四国ではたぶん見たことなかったと思う。
クヌギよりもコルク質が発達している。
遠景。
天守閣の手前で。
葉が少し残る。
天守閣は昨日から閉鎖中。
お堀と基町高層市営アパ―ト群。
戦跡。
最初は外部と連絡が取れない。それは大災害の時も同じ。
横から。厚いコンクリートの屋根の上に土を載せている。
チシャノキ。
中国地方から沖縄にかけて分布。
この木の花を見るために6月に観察会したのでした。
よかった、葉がまだ残っていました。落ちていませんでした。
葉がなかったら寂しかったかもしれません。
木の寿命に比べて、人の一生のなんて短いことでしょう。(クローン桜のソメイヨシノは別)
柄にもなくそんな感情が沸き起こってきます。
こちらイヌシデ。
マルバヤナギ。
葉の丸い柳。
ユーカリ。
チシャノキの下から。
左の☆の場所に私は車停め、長井さんは右の☆の場所で立って、私が車を回すのを待っていた。
19年ぶりに思い出した。
一緒に自転車を車に積んだのかどうか記憶にない。プライドを傷つけずに送り届けるのに苦労した記憶がある。
その年の秋、私は断り切れない人に頼まれて、原爆文学の話を故郷ですることになっていた。被爆体験の語り部の人に話し聞いてはどうかと、そんな話を車内でした。
人は出会い、また別れていく。
代表がいなくなって、会は運営が難しくなり、やがて休止。
きょうはなんか寂しい話を思い出した。
行けませんねぇ、前向き、前向き。
ミュンヘンの目抜き通り。ストリートミュージシャン。
奥にベネトンの店が。
木の周りで休む人たち。
東京なら銀座通りでしょうか。
ドイツ語で話する子供たち。当たり前だけど。
録画した番組見ていて、行ったところが出てきて嬉しかったけど、いつ海外へ行けるのやら・・・と毎度おなじみの感想。
クリスマスも近い。クリスマス用のマスク作りましょう。
用意するもの。
フリース25センチ四方、赤いゴム。
中表にして輪の部分を1㎝残して縫います。
縫った部分を合わせて、真ん中を広げ、逆三角形にしてから、両端と裏返す部分を残して縫います。
四角に折ってゴムを通します。
ひっくり返します。外側。
内側。顔に当たる部分。
着けてみました。早く来い来い、クリスマス~★☆
11月に牛田で見かけた若い人、ファー付きのかわいい帽子かぶっていたので真似することにしました。
左端のを注文してなかなか来ないので、しびれ切らしてついアマゾンでも買う。右二つです。
頭は一つなのに、こんなに要らないって。
結局これが一番好きかな。
こういう仕掛け。
真っ黒のつもりだったけど、勘違いした。これは地味。
編みこみの模様入り。
ファーの部分だけ取り外して他につけてもいい訳で、さて何通り?
順列組み合わせ?数学は大の苦手。数Ⅱまでしかやってない。
何通りできるか、今度試してみます。
町でこんな変な帽子かぶっている人見たら、私かも。その時はどうぞよろしく。
年取って、人と同じ恰好したいとか、人にどう見られているかあまり気にならなくなった。
残りの人生、好きなものに囲まれて好きに暮らす。
父を入れて11人いた父の兄弟姉妹、もう叔父叔母それぞれ一人ずつしか残っていない。そのことに今日気が付いて愕然とした。友達も少しずつ体調悪くなっていくし。
残された時間、大切にしたいものです。
姑様の染と、私の織り、二人の作品の展示を年明けにすることが決まり、少しずつ準備します。
パネルは5枚、その大きさを測り、いろいろ置いてみます。
これが真ん中のメインですね。1m×1mの大作です。
右はこちら。
暖簾は新年らしく「新雪」と言うタイトルにでも。
右は裏打ちしたテーブルセンター。藍の色が薄い。
右はこちらでもいいけれど、結局両方やめて二人展のタイトルやお知らせなどを貼るる。
竹の暖簾棒が、二つのホームセンターにもう売っていなかった。以前は100円であったのに。
百均のツッパリ棒にしますか?それでは作品が安っぽく見える。
家にある竹で作る予定。
藍染めの隣に、色彩のないものを。真ん中は模紗織りの夏のマフラー。左は色彩いろいろ。
左右ともにオーバーショット織り。柄の都合で、経糸が長く浮く場合があるので一織ごとに平織りを入れて、糸を安定させる。
右のが一番難しかった。
細い糸でしてよく切れた。
柄が複雑で間違ってもなかなか気が付かない。
その上、これ織っている途中で、乳腺に腫瘍が見つかり日帰りで手術した。
2017年だったかな。翌日から作業続行。その思い出の作品。
腫瘍は幸い良性だったけど、定期検診は欠かせません。身内に乳がん多し。
左右は同じくオーバーショット。
真ん中はネットで探した組織図で織ってみた。こちらはただの組織織で、平織り入れない。
たまたま刺繍糸たくさんいただいて、きれいな色を楽しみました。刺繍糸は一枷が5m、幅の狭い織りに都合がよかった。
で、パネル5枚分の構想があらかた完成。
あとは展示用の棒や紐や、タイトル、キャプションの準備。
毎日少しずつでもやりましょう。
習っているのは知っていたけど、それ以上は聞いたことなかった。
写真もたくさんありました。30年前なら、姑様は67歳。今の私より若い。大作はまだまだありますが、今回はこれだけで。
姑様が元気なうちに、人に見てもらいたかった。ゆかりの人もほとんどいなくなったし、今はコロナで人も呼べない状態。残念です。
庭のシロモジがやっと色づいている。
もう初冬だが、暖かい当地では、我が家の庭では、落葉樹の色づきが毎年、年末になる。
この木は2016年に庭をリフォームした時に、私の好みで植えてもらった。これがわが庭のシンボルツリーです。
それまでは姑様が40年以上前に植えた、センダン、クスノキ、ヤツデなど。姑様には悪いが、私はこの三つの木がいずれも好きでなかった。
幸い、長年揉めていた隣地との境界線が、所有者が変わってすんなり確定し、塀を作り替えるのに合わせて、思い切って庭も造り替えた。
って、偉そうですが、狭い狭い庭です。街中だから贅沢言えませんが、田舎の広い家と庭で育った身には、狭いのは何よりも辛い。辛いけど、与えられた条件でなるだけ心地よく。そう思うしかないわけです。
庭を自由に考える。好きな木が植えられる。ああ、何と幸せなことでしょう。
三か所から見積もり取り、お洒落で値段も手ごろな業者に依頼。打ち合わせに事務所へ行った。
あちらはアメリカハナミズキ、またはシマトネリコを勧めたんだったかな。あまりにありふれている。もう一つは、オーストラリアかどこかにある常緑の木だったかな。こちらもときめかず。
シンボルツリーはシロモジにして、あとはナツハゼとシデコブシ、と自分の好きな木ばかり言うと、ちょっと待ってくださいと植物図鑑のようなものを引っ張り出して名前確認。
取り寄せられますか?
それは大丈夫です。で、他はどうしますか。
他って?
通路とか。タイル貼ってプロバンス風とか。。。
それもお断りする。
プロバンス・・・悪くはないけど、古い和風建築に合いそうにもないので。
庭を作り替えて4年、木も大きくなり、次第に庭らしくなってきた。
シロモジも大きくなった。そして、毎年、シロモジが色づくころになると懐かしい人たちを思い出す。
シロモジはクスノキ科の落葉樹で、広島湾沿いの西半分、標高500メートルくらいの山によくみられる。例えば極楽寺山とか。
1996年、地元公民館の自然観察の講座の後、観察会のグループができた。中心になったのがながいさん。実名出すのはもういいでしょう。亡くなられてもう19年になるから。
とても、とても、とっても楽しい会だった。毎月一度、結構ハードな山に登って植物観察。説明は長井さん、または中学校の理科の先生だった男性。いろいろな山でいろいろなことを教えてもらった。それまでの私は家にこもって文章書いたり、本読んだりばかりの生活。人とあまり話すこともなく、結果、人とあまり話せない人間になっていた。
40歳過ぎて病気が見つかり、子宮と卵巣の全摘をした。お腹の中が癒着しまくっていて、手術は大変だったらしい。退院後は歩くことから始めて徐々に体力回復に努めるうちに、体を動かす楽しさに目覚める。ずっと長い間、動物としての必要最小限の動きさえしていなかったのかもしれない。
その反動からか、山を歩いたりするのがとても楽しく、その流れで自然に植物観察の会にも参加した。
会は今まで出会ったことのないタイプの人がほとんどだった。めんどくさいこと言わない。人をけなさない。えらそげに言わない。などなど。
そのなかでも代表のながいさんは、男性ながら全然威張らず気配りのできるやさしい人で人望が厚かった。例によって、私はここでも会報作成。よく打ち合わせをした。
追々分かったことは、前年九州大学を受験して浪人、結局広島の地に落ち着いた。だから同じ年に同じ学校へ入学していたことを後で知る。今でも不思議に思う。あの入学式の会場に、長井さんも、我が夫も、私も、席が離れていたけど、一緒にいたことが。みんな10代の子供。この私にもそんな年の頃があったのをいつもは忘れている。
会で出会った当時は離婚して一人暮らし、子供さんは元の奥さんの方にいるというのは誰か別の人から聞いたと思う。
数年間、楽しく活動した。電車バスで行ける山しか行かなかったけれど、極楽寺は当時、山頂近くの温泉施設の送迎のバスがあり、施設を利用することで乗せてもらった。
時は11月、キャンプ場の周辺の山は黄色に染まったシロモジの群落、行けども行けども、明るい黄色のシロモジの木。きれいな眺めだった。それまで知らなかったので、三裂する葉も珍しく、いっぺんで好きになった木。
あらたにさんが大きなホウの葉を拾うと、国定公園だったか国立公園だったかなので隠して持ちなさいと注意する真面目な人だった。面白かったあらたにさんももう故人になられた。。。
夜、突然電話がかかってきたのです。
今日はご主人に相談があると言われるので受話器渡すと、話している夫の顔色が次第に変わる。ああ、ここまで書くうちに当時のこと思い出して胸がバクバクする。
内科ならどこでも。そこから大きい病院に紹介になります。と、夫は近所の医院を紹介していた。
一月くらいして、会合でその先生と一緒になった夫は、一年くらいですね。親せきの方?と言われたとのこと。
一年・・・ご本人は知っているのだろうか。あんなに元気なのにと信じられなかった。その時は、よその男の人のことだけど、一人の時に思い切り泣いた。
それからの一年間は入退院を繰り返しながら、やはり一年くらいで亡くなった。アルバイトだった仕事ももうやめていた。今思えば、会に関わることで最後の気力を保っていたのではないかと思う。
会報のことで病院に相談に行くと、ベッドにはいない。スニーカーはいて、病棟の階段を往復していたこともある。その時は庭のヤマボウシの花を一輪持参するととても喜んでくれた。
亡くなったのは2001年の9月。6月の広島城の観察会には一時帰宅して、自転車で参加していた。体がきつそうなので送ると言うと、それまでのように遠慮せず、乗ってくれた。車はその頃、X-Trailだったので自転車一台、余裕で積めた。(ああ、あの車、また乗りたいなあ。。。。)
車のところまで自転車押して一緒に行くつもりだったけど、停めた自転車の横で待っていて、もう余計に歩く体力が残っていなかったのかもしれません。一人暮らしで、家に帰ってあのあと夕食はどうされたのかといまだに気になります。昼はチューブ入りの栄養剤のようなもので済ませていたから余計に。
それが最後の参加でした。そして私がながいさんを見たのもそれが最後になりました。享年53歳か54歳、誕生日知らないので。若いですねぇ。
うちの夫も交えて数人で山へ行ったこともあります。曽場が城山の急な下山路で躊躇している友達に「滑り落ちる前に道を横切る」とコツを言うのですが、あとでそんな軽業みたいなとこと言って笑い合いました。なんであんなに楽しかったのか、女子学生みたいにけらけら笑っていたのです。
いゃあ、長話になりました。会はしばらく続きましたが、やがて参加者も減り、解散しました。会費は月100円、会計報告、会計監査も怠りなく、残金はずっと最後の会計係が持っていましたが、東日本大震災に寄付したと聞きました。いい終わり方だったと思います。
会では何よりも、自然の中を気の合った人と歩く楽しさ、それを教えてもらったと思います。
人生はいかに自分を楽しくさせるか、楽しく過ごした方が絶対にいいんですから、その方法の一つを教えてもらいました。今でもお付き合いしている友達の何人かは、この会で知り合った人。みんな19年分年取りましたが、会うとあの頃のように楽しく話します。
シロモジ・・・以前は極楽寺のシロモジに秋になると会いに行ってたけど、今は運転が億劫で行かない。途中360度のループがあったり、と険しい山岳ルートです。
その代わり庭に一本シロモジの木を。それを眺めて昔を思い出しています。
長話陳謝。
公民館で借りてきた。
先日「わたしは誰も看たくない」という、身も蓋もない介護の小説読んだけれど、これはその対極にある本。小説ではなくて実話らしいが、名前はすべて変えてあるとのこと。
自分の母親が脳梗塞で体が不自由、父親は認知症が進んで手がかかる。思い切って親の古い家を壊して家を二軒建て、隣に住んでの介護が始まる。
家を建てるところからがひと悶着。聞いてないと話を壊したり、大手ゼネコンに勤めて一級建築士だった父親は自分の思い通りに家を建てて、数千万のお金をほぼ使い切ってしまう。
本人はしっかりしているつもりだけど、ここで止めておけばと、私は残念。でも自分の経歴に誇りを持つ父親の考えを変えさせるのは無理だったのだろう。
介護で困るのは二人同時に手を取るようになった時。今までの男は家の中で妻にかしずかれ、何もしてこなかった。それで家の中がまわって行く間はいいけれど、できなくなった時にも、男性は同じサービスを受けたがる。介護するものは大変である。
相手が娘だとわがまま言い放題。認知症とわかっていても、娘を物で殴るようになり、父親はとうとう精神病院に。そこでも暴れる。書くのは著者も思い出したくなくて大変だったと思うけれど、よく書いてくれたと思う。
肉親の情はあっても女性一人で介護する限界は超えている。困った時には相談できるパイプをたくさん持って、一人で抱え込まない。改めてその思いを強くした。
著者はとてもよくして上げたと思う。夫との間もたまには険悪にはなりながら、夫もよくしたと思う。
介護の周りの人間関係は、家族により千差万別だけど、今は長男の嫁が前面に出なくていいという流れなので、それをこの本の中であれこれ言うのはもう時代に合わなくなっているのではと思った。
お嫁さんの立場からの話も聞きたいものです。
人間性にまで言及されて、この本読んで気を悪くしているのかも。
ことほど左様に介護は難しく、それを書くのはもっと難しい。
私の経験。
2018年4月末、大腿骨頸部骨折をした姑様はリハビリ病院から帰宅。介護度4。入所介護を勧められたけれど、夫が自宅介護を希望し、結果としては8か月半、隣の家から私たち夫婦は通いの介護をした。2019年年明け、夫、腰痛で続けられず施設にお願いして今に至る。
退院時に、自宅介護の計画の話し合いが、ケアマネさんの元、リハビリ病院、デイサービス業者、介護ヘルパ―業者、家族で持たれ、それぞれの分担が決められた。
その時何よりも驚いたのは「長男のお嫁さんは何をしますか?」と言う問いかけがなく、もちろん負担も強制されなかったこと。
ああ、今はこうなっているのだと、実母の介護の苦労を見てきただけに、目からうろこ。姑様が通所していないとき、ヘルパーさんも来ない日は夫が担当。
もちろん食事の支度や買い物などは私の余分な手間ですが、それは普段からしていること。私は楽な介護だったと思います。
だから、男兄弟の連れ合いが関わらないことにこだわるのは、この本を書いた時点では受け入れられても、今の時代には日本全国津々浦々、同じ感覚ではないと思います。
著者の弟さんは財産すべて放棄したのだから、法事などの費用を出してもらおうとしたり、もうあれこれ言わない方がいいと私は思います。
私のささやかな介護の経験での喜びは、姑様の無垢な笑顔と、こんな私でも役に立っているということでした。
嫌だったのは、夫とその弟妹の、してもらって当然という態度。弟妹が帰省すると、肉親だけで語り合い、(それは全然結構なのですが)、私に「お世話になっています」の挨拶がなかったこと。その場にも入れない無言の雰囲気。私はいてもいないのと同じ空気のような存在。
妹の作る料理が口に合うと言われて、何度か抗議しましたが、いまだに謝りません。
ああそうですか、時間かけてドロドロに煮たあのおかずがおいしいのね、あんたの親も妹も何してもトロくて時間かかるもんね、親も妹も、部屋が全然片付けられないもんねと言うようなことは言いません。ただ思っているだけで。
何を期待していたのかなあと、今は思う。何を期待して、自分でへこんでいたのかなあと。割り切って当事者にお任せするのがよさそうです。
私のささやかな経験から、息子たちには介護の苦労はさせてはいけないということです。自分お金全部使って、足りなければ家を売るなり貸すなりしてでも一人の子供に負担かけない。
その点、ワンルーム借りていた未婚の次男に、今春、マンション持たせたのは、結果的にはよかったと思う。先で家に帰っておいでと言う流れになって同居していれば、介護保険も使いにくいし、本人に介護の負担は行くし、親の死後は家の相続ですんなりと自分のものにはならないはずだし。
一戸建ては家族があれば住みこなせるけれど、便利な場所のマンションが住みやすい。マンションの価値は何よりも暮らしの便利さ、古い新しいはあまり関係ないと、最近あるサイトで見て確かにそうだと思いました。
歩いて行けるところにすべてそろい、日常の暮らしに困らないことが何よりも大切。そして引渡し前にちょっとした瑕疵が見つかり、管理組合が手配してあっという間に直してくれた。そういう経験がないのでびっくりした。自分の家なら、複数の業者探して見積もり取って、当日は立ち会って・・・ああ、めんどくさい。
私も年取ったらマンションへ行こうかな~