内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「忍ぶ」と「堪(耐)える」の相違点について

2021-09-29 05:46:48 | 日本語について

 「堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ」とは、言うまでもなく、終戦の詔書にある表現で、昭和天皇による玉音放送の一節として、終戦の場面を描く映画などにおいても、それこそ数え切れないほど使われてきた。戦後生まれの大多数の日本人にとってさえ、昭和天皇の玉音放送の声と切り離してこの一節を思い出すことは困難なのではなかろうか。
 「堪える」と「忍ぶ」とはどう違うのだろう。この一節に関するかぎり、類義語を重ねることによる強調表現という以上の役割はないように思われる。ところが、古語辞典によると、両者は、類義語ではあっても、明らかに弁別的価値を相互に有している。この点、手元にある辞書のなかでは、『古典基礎語辞典』(角川学芸出版 2011年)と『ベネッセ全訳古語辞典』(改訂版 2007年)が特に参考になる。
 「たふ」には「堪ふ」と「耐ふ」の二つの漢字表記があるが、両者の違いはここでは問わない。
 『基礎語辞典』の解説を見てみよう。

タ(手)アフ(合ふ)の約。手を向こうの力に合わせる意。自分に加えられる外からの圧力に対して、それに応ずる力をもって対抗する意。外力に拮抗する力をふるうので、その結果として、現状をもちこたえ、我慢し、じっと保つ意。また、自分自身の激しい感情については、それを抑え、こらえるの意。この用法は打消表現で用いられることが多い。また、外力に応じ、抵抗し、負けないだけの能力の大きさがあることを示す場合もある。類義語シノブ(忍ぶ)は、外に表れないように自分の動きや気持ちを隠し抑える意。

「耐(堪)える」が、外力に向かって対抗する、対抗しうる、その状態を保持するという外向性をもったアクション、その持続、あるいは持続の可能性を意味しているのに対して、「忍ぶ」は、内にあるものが外に表れないようにする、それを隠す、秘めるという内向的な状態の保持を意味しており、両者は、いわば意味エネルギーのベクトルが互いに真逆の関係にある。
 両語のこの違いを前提とするとき、馬場あき子による式子内親王の名歌「玉の緒よ絶えなばたえねながらへば忍ることのよわりもぞする」についての以下の評釈がよりよく理解できる。

この式子内親王の一首は、“忍ぶ”ということ以上に“耐える”ことがテーマになっており、その究極には“死”をさえ考えている激しさは、個性的という以上に、むしろ異常でさえある。それは、新古今集の特色をなした艶麗・典雅な抒情からは、少しくはみ出した真率な調子をひびかせ、しかもなお幽玄な雰囲気をたたえている。(『式子内親王』講談社文庫 1979年)

 忍ぶる恋の臨界を突破し、耐えることの限界に達し、そのことが「玉の緒よ絶えなばたえね」(「私の命よ、人思う苦しさに絶えだえの命の糸よ、ふっつりと切れてしまうなら、いっそそれでもよい」)という絶唱を生んだ。「凡歌尠からぬ小倉百首撰の中では、稀に見る秀作の一つ」と塚本邦雄が『新撰 小倉百人一首』(講談社文芸文庫 2016年)で例外的にこの歌を称賛しているのもゆえなしとしない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「身すがら」という言葉について

2021-09-26 23:46:09 | 日本語について

 金曜日に審査があった修士論文の中に、馬場あき子の「太宰治と日本の古典―なぜお伽草紙か」(『國文學 : 解釈と教材の研究』學燈社 1974年2月号掲載)から以下の引用があった。

それは厭戦の情に発する孤独なユートピアへの脱出であるとも、まるごとの全き人間性を、身すがらに抱いて逃亡したい異郷への憧れであるとも考えられよう。〈お伽草子〉という甘やかなふしぎな時空の選択はそこに浮かび上がってくるのである。

 この引用の仏訳に間違いがあったので審査の際に指摘した。「まるごとの全き人間性を」を「逃亡したい」の目的格として訳してしまっていた。それは無理だろう。やはり「抱いて」の目的格と取るのが妥当だ。でも、一読しただけでストンとわかる文とは言えないかも知れない。
 この引用の中の「身すがらに」という表現がとても強く印象に残った。「身すがら」は近世語で、名詞あるいは形容動詞として機能する。古語辞典には、用例として、『奥の細道』の草加のくだりがよく引用される。「只身すがらにと出でたち侍るを」(ただこの身一つだけで行こうと出発しましたが)。「身すがら」には、「(家族・親類などがなく)自分ひとりで生活していること」の意もある。近松門左衛門の『心中天網島』に「われら女房子なければ、舅なし、親もなし、叔父持たず、身すがらの太兵衛と名を取った男」とある。
 「すがら」は上代から使われている。副詞として「その間中。始めてから終わりまでずっと」の意では、「この夜すがらに眠も寝ずに」など、万葉集に用例がある。接尾語として「…の間中ずっと」の意では、「道すがら面影につと添ひて、胸もふたがりながら」という用例が『源氏物語』(須磨)にある。「…の途中で」の意もある。『増鏡』の「道すがら遊びものども参る」がその一例。この意味では私も使うことがある。
 『新明解国語辞典』第八版(二〇二〇年)には、ちゃんと「身すがら」が載っており、「孤独で、天涯無一物の境涯」「荷物などを持たず、からだ一つのこと」とあるから、まったくの古語というわけでもないのだろう。私自身は使ったことがない。これを機会ににわかに使ってみようとは思わないが、味わい深い言葉として心に刻まれたことは確かである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


いわゆる日本人的心性が日本語の上達を妨げるという逆説について

2021-09-17 23:59:59 | 日本語について

 学部三年生になると、日本語学習に熱心で優秀な学生たちは、私に日本語で話しかけてくるし、メールを送ってくる。それは日本語学習者として望ましい姿勢だ。それに対して私ももちろん日本語で受け答えする。
 たとえ彼らの文言に文法的には少なからぬ誤りがあっても、ほとんどの場合、意は通じる。日本語学習者と教師という関係の中では、日本人同士であれば多かれ少なかれ無礼な物言いも許容される。それらの物言いに対してあまりにも厳しく対処してしまうと、彼らの学習意欲を削いでしまいかねない。
 だから、原則として、学生たちの日本語のミスについて、私はとやかく言わない。彼らができるだけストレスを感じないで話せるように配慮する。たとえ彼らの言いたいことがすぐにはよくわからないときでも、会話の持続性を重視し、その持続の中で、同じ話題に関して表現を変えながら、彼らが言いたいことを探り当てるようにする。会話がちゃんと成立しているという成功体験が彼らの学習意欲を高めるからである。
 間違いを減らすという意思ではなく、言えることを増そうという姿勢を彼らにはもってほしい。一言で言えば、そして嫌いな表現をあえて使えば、プラス思考あるいはポジティブ・シンキングということである。
 ところが、フランス人学生たちの中には、特に成績優秀な学生たちの中には、間違いを恐れてつい口籠ってしまい、積極的に話せない学生が少なくない。ちょっと皮肉な言い方をすれば、彼らは、いわゆる日本人的な姿勢を身に着けてしまった結果、あるいはもともとそれと親和性があったために、日本語表現力の向上において後れを取ってしまう。裏返して言えば、間違いを恐れず、場合によっては、場の中で浮いてしまう或いは相手にドン引きされてしまうことを恐れずに、とにかく積極的に話すという「非日本人的」姿勢が日本語の上達にはより好適なのだ。
 しかし、今日、ある三年生からメールをもらって、ちょっと考え込んでしまった。その学生は一年次から常に成績は断然トップ、人柄も申し分がない。二年生の終わり頃から日本語のメールを私に送ってくるようになった。意を通ずるのに十分な文章である。ところが、彼女が一生懸命使おうとしている敬語はほぼ全部間違っているのである。
 以前は、返事の中で「教育的配慮」からその間違いをすべて訂正していた。それに対して彼女は感謝の返事をくれる。だが、今日もらった短いメールを読んで、その中にもやはり敬語の間違いがあったのだが、それを指摘せずに、用件についてのみ返事を送った。
 なぜそうしたか。問題は、単に間違いを訂正し、敬語を身につけさせるというところにはないのではないかと思ったからである。敬語システムという膨大な負担を日本語学習者たちに課し続けるよりも、日本語自身が変わるべきではないのかと思うのである。言い換えれば、日本語自体が「国際化」すべきなのではないかと思うのである。
 敬語システムを目の敵にしているわけではない。私自身は、かなりちゃんとそれを運用できているつもりであるし、その適切な運用が人間関係を円滑にすることも認める。しかし、日本人にとっても必ずしも容易ではない敬語の適切な運用を、外国語として日本語を学習する人たちに対して、「日本語ってこういうものだから」という理由だけで強制していいものだろうか。
 「タメ口」をデフォルトとして推奨したいのではない。「他者」に対してより開かれた言語として日本語が創造的に進化することを願っているのである。思いっきり大風呂敷を広げて啖呵を切れば、このブログはその「創造的進化」に貢献することをその目的の一つとしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


声に出して読む日本語レッスン

2021-07-22 12:42:07 | 日本語について

 今年度に予定されていた九州大学への留学をコロナ禍のせいで諦めざるを得なくなった修士二年の学生がいる。対馬藩の近世外交史をテーマにした修士論文を執筆中で、九大への留学はその論文を仕上げるのに必要な現地調査のためにも是非実現させてあげたかった。しかし、これ以上宙ぶらりんな待ちの状態に置かれるより、フランスにとどまって今年度中に修論を仕上げて前に進みたいと本人が言うので、論文の構成の変更を提案した。今その案に従って仕上げようとしている。すでに百枚以上書けており、全体のバランスもよく、何とか年内には口頭試問にこぎつけるだろうというところまできた。
 その学生から先月末にメールが来た。論文の方は順調だけれど、留学は駄目になったし、最近全然日本語を話していないので、日本語表現力が落ちている。このままだと来年受験するつもりの日本語能力試験2級もあやしい。どうしたらいいかという相談であった。ZOOMで日仏両語を使って話し合った。今は修論完成が最大目標だから、その補助になるような形で日本語口頭表現能力の立て直しを図ろうと提案した。具体的には、手始めとして、修論のために読んでいる日本語の文献を声に出して読むことを提案した。しかし、ただ自分一人で声に出して読むだけでは、正しく読めているかどうかわからない。だから、私が聴手となって、読み方を確認することにした。
 昨日がその第一回目だった。テキストは、山本博文の『対馬藩江戸家老 近世日朝外交をささえた人びと』(講談社学術文庫 2002年)の「はじめに――対馬藩の特殊性」に予め決めてあった。彼女はこの本をすでに熟読しており、内容理解には問題がない。一段落ずつ声に出して読ませた。聴手がテキストを見ないで聞いてもわかるように読むのは実はそんなに簡単なことではない。漢字の読み間違いがあってはならないことは言うまでもないが、発音や一文内の区切り方などが不適切だと聞いただけではわからなくなる。だから、一応は読めていても、それらの点に問題があると事細かに注意した。
 夏休み中は、ずっとバイトしながら論文を書き続けるという。週一回くらいのペースで「声に出して読む日本語レッスン」を続けることを提案した。次回のテキストは、荒野泰典『「鎖国」を見直す』(岩波現代文庫 2019年)である。本書の基になっているのは、かわさき市民アカデミーでの講義(2002年)である。本書にもそのときの話し言葉の調子が残されている。それだけ読みやすく、使える表現も多い。テーマもまさに彼女が修論で扱う問題に直結している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「言葉は自分で自分の命を守れない」― 消えゆく爺の心の叫び

2021-06-20 19:16:47 | 日本語について

 今日の話題は、読んでいくと、徐々に、いや、たちどころに、な~んか、とてもイヤぁ~な気分になる話です。言い換えると、エッ、なに、エっらそうに、上から目線でさ、アンタ、何様のつもり、っていう、とても感じの悪い、年寄の繰り言です。
 だったら、そんな話、しなけりゃいいじゃん、と、そこのお若い御仁はおっしゃるか。それももっともな話じゃ。アンタは正しい。しかしな、年寄りとはこういうものなのじゃよ。言わなきゃいいこと、そのまま墓場に持って行けばいい愚痴、恨み言、讒言(読めるかの、そこのお若いの、「ざんげん」と読むのじゃ、この機会に覚えておきなされ、おそらく何の役にも立たぬがのぉ)の類を、だれかに聞いてほしいのじゃよ。「ウン、よくわからないけど、でも、わかるような気がするよ、爺ちゃん」―孫(あるいはそれくらいの年齢の若人)のこんな見え透いたお座なりな言葉を冥土の土産にして消え入るように身罷りたいのじゃよ、わしは。
 さて、そろそろその意地悪爺さん的な無駄口を始めてもよろしいかの。これが最初で最後じゃ(って、これから死ぬまで何度も繰り返すであろう)。

 日頃、安易な言葉遣いはけっしてしまいと文章でも会話でも余は気をつけている。少なくとも、本人としては、細心の注意を払い、おざなりな言い方で事を済ませないように心掛けている。このブログでもその原則は遵守されている(と本人は思っている)。敢えて今はやりのいい加減な表現を用いるときもあるが、それは意図してある効果を狙ってのことであって、そんな表現がイケてると思っているわけではない。
 ここで、得意技を使うこと、言い換えれば、伝家の宝刀を抜くことをお許し願いたい。つまり、自分のことをすべてアッケラカンと棚に上げ、無防備な他者を一方的に抜き打ち的に難詰することをご寛恕願いたい。
 世の中には、なんといい加減、杜撰、おざなり、ただのウケ狙い、もっと言えば、発言している本人のバカさ加減を露呈するだけの言葉遣いに満ち溢れていることか。この話をしだすときりがないので、ただ一つの表現だけをこの記事では話題にする。そうしないと、この記事はエンドレスになってしまうであろうから。
 おそらく、2011年の東日本大震災および福島第一原発事故以来、特に頻用されるようになった表現であるが、「寄り添う」である。この言葉自体になんの文句もない。美しい言葉である。「年老いた夫婦が互いに寄り添うように生きている」などいう表現には何の異存もない。ちょっとウルッとしそうなくらいである。しかし、フクシマ以来、なにかといえば、「寄り添う」という表現を見聞きするようになった。お使いになっているご本人たちは、それぞれの文脈において、真率なお気持ちからそれを使われている場合がほとんどだと思う。そのことを疑っているわけではない。
 が、正直に言おう。この言葉を聞くたびに、虫酸が走るんだよ。免罪符みたいに言葉を使ってんじゃねーよ。その都度、もっとどんな表現が適切か、頭と心と体を使って、真剣に考えろ。アンタたちのやっていることは、無意識的な、けっして罪に問われることもない言葉殺しなのだ。だからこそ深刻なんだよ。アンタたちが無自覚に安易に同じ言葉を繰り返せば繰り返すほど、その言葉は命を削られていくってことがわかってねーんだよ。言葉を発っそうとするそのたびに、もっと言葉を探せ、躊躇え、言い淀め、逡巡しろ。わかったように流暢に言葉を垂れ流すな!
 と、ここまで書いて、そこかはとなく虚しい気分になったので、今日はこれで御暇します。皆々様、ご機嫌よろしゅう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


明治の女学生の「よ」と「てよ」の使い方について ― 柳田國男『毎日の言葉』と夏目漱石『門』

2021-05-02 23:59:59 | 日本語について

 柳田國男の『毎日の言葉』を読んでいると、各地方の方言についての柳田の該博な知識に驚かされる。現地に赴かずには確かめられないような細やかな違いについての詳細な記述からして、その多くは実際に現地で観察・採集・記録したものであろう。中には友人・知人・弟子たちなどから得た情報もあったかもしれないが、いずれにせよ、日本語の地域間の多様性、互いに離れた土地の間に見られる共通性、時代による変化などに柳田がどれほど深い注意を払っていたかが本書を読むとよくわかる。柳田自身が実際にその変化を目の当たりにした言葉遣いの変化についての記述も面白い。今ではあたりまえすぎてなんでそういうのかと改めて考えてみることもない表現や、今はすっかり失われてしまった言い回しなどについての柳田の考察はとても興味深い。
 本書の「知ラナイワ」と題された一文も面白く読んだ。
 明治の女学生が、明治のお婆様から笑われていたのは、アルワヨ・ナイワヨなどと、ワの後へわざわざヨをくっつけるからで、単に言葉のおわりにワを添えるだけならば、もう江戸時代にもあり、東京では珍しいことではなかったという。そこにどうしてまたヨをつけ始めたものか、「たぶんどこかの田舎から、おしゃべりの娘が携えてきたのでしょうが、その原産地もまだつきとめられておりません」と記しているところを読んで、思わず笑ってしまった。
 この一文のその後は、主にワの起源の探索に入るのだが、それは本文に譲るとして、ヨについて、ふと思い出したことを記しておきたい。
 夏目漱石の『門』の冒頭の宗介と細君とのやりとりは、漱石作品中私がもっとも好きな文章の一つだが、そこに次のような一節がある。

「あなたそんな所へ寝ると風邪引いてよ」と細君が注意した。細君の言葉は東京のような、東京でないような、現代の女学生に共通な一種の調子を持っている。

 柳田が指摘しているヨの用法とはまた違う話だが、この宗介の細君が使う「てよ」についての、「東京のような、東京でないような、現代の女学生に共通な一種の調子を持っている」という説明が前から気になっていた。明治末期(『門』の連載は明治四十三年)、ある程度以上の学校教育を受け、かつ必ずしも東京生まれとは限らないが、東京に在住している若い女性たちの間に現れた新しい言葉遣いということだと思うが、では、今日の日本語での「風邪引くわよ」とか「風邪引きますよ」に対応する、「現代の女学生」的ではない当時の女性的な言い方はどんなだったのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「清い泉の空高く吹き上げる日」― 柳田國男『毎日の言葉』

2021-05-01 21:00:57 | 日本語について

 柳田國男の『毎日の言葉』の初版が刊行されたのは、敗戦の翌年昭和二十一年三月である。その自序に、「この一冊は、もっぱら若い女性を読者に予想して、書いてみたものであります」とある。しかし、それは、当時の若い女性たちの言葉遣いに特に問題を感じていたからではないとすぐに断っている。「正直なことを言えば、今男たちは気が立っていて、話をしてもじっくりと考えてくれそうにないからであります」と言っている。確かに、敗戦からまだ半年あまり経ったばかりの当時の日本で、言葉遣いについて落ち着いて考える余裕など、男女を問わず、ほとんどなかったであろう。
 はっきりとそう書いてあるわけではないが、特に若い女性を読者として想定して書いたのは、その女性たちが遅かれ早かれ母親になり、自分の子どもたちに最初に言葉を教える役割を果たすことになるから、戦後の混乱期にあって、まずそういう女性たちに、「生きて日々働いている口言葉」の大切さを柳田は伝えたかったのだろう。戦時中、「人が口さきだけの好い言葉を受け渡ししていた時世のあじきなさを、しみじみと経験なされた皆さんの若いうちに」柳田は国語の未来を託したかったとも言えるのではないだろうか。
 自序の終わりの数行をそのまま引く。

国語はわれわれの心がけしだいこの上までいくらでもよくなりますが、そのかわりにまた今よりもっと見苦しくもなります。その心がけというはどんな事かというと、なによりもまずよく知った言葉を使うことです。その知るということがこれまで足りませんでした。おもしろく話をするような人があまりにも少なかったためであります。この毎日の言葉というようなことを考えさせる書物が、おいおいと女の人たちの中からも出てくるように、私はごくわずかな見本のようなものを書いてみました。これが迎え水というものになって、清い泉の空高く吹き上げる日が来ることを、心の奥底から念じている者が私であります。

 本書の中で柳田が取り上げている言葉の多くは、「オ礼ヲスル」「アリガトウ」「スミマセン」「モッタイナイ」「イタダキマス」「タベルとクウ」「モライマス」「イル・イラナイ」「モシモシ」など、今日でも私たちが日常的に無意識に使っている言葉である。その語源についての柳田独特の説明は、今日、言語学的には必ずしも支持されえないとしても、その中にはなお傾聴に値する洞察・卓見が随所に見られる。
 初版から十年後に刊行された第二版の自序を柳田はこう結んでいる。

「毎日の言葉」をただ一身の修養のためでなく、それをこの民族の根元を明るくするために、かねてまた遠い末の世を計画するの料に、おいおいと考えていくような世の中を到来せんことを、私はひとり夢みているのであります。

 柳田の夢は夢のままに終わってしまうのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


今日の日本語についての小愚考 ― 遠隔寺蓬庵主『春嘆録』(未公刊遺稿集)より

2021-04-30 00:00:00 | 日本語について

 ワードプロセッサーが市場に出回るようになったのは1980年代前半のことであったと思う。私は卒論をワープロで作成したが、その当時はまだごく少数派だった。80年代末から自身で使いながら、これは文書作成方法に大きな変革をもたらすだけでなく、日本語そのものに変化をもたらすだろうと予感した。それから三十年ほどの間に文章作成ツールとして、パソコン、携帯電話、スマートフォン、タブレットが圧倒的な勢いで不可逆的に普及し、手書きで文章を書く機会は私自身ほんとうに少なくなってしまった。個人的には、講義ノートをあえて手書きにするなど、ささやかな抵抗を試みてはいるが。
 文章作成ツールの目覚ましい技術革新に伴うもう一つの大きな変化は、文章を作成してからそれが人目に触れるまでの間が恐ろしく短くなったことである。SNSでもメールでも送信ボタンをクリックしたら瞬時に相手に届いてしまうし、ネット上に記事を投稿すれば、あっという間に拡散されたり、炎上したりする。実に忙しなくなった。いちいち粗製乱造などと批判するのも空しくなるくらい、推敲どころか、ろくに字句の誤りのチェックもされていない文章がネット上を無数に飛び交っている。新聞記事にしても大同小異で、ずいぶんひどい誤記誤字脱字を発見するのは日常茶飯事で、それらにいちいち目くじらを立てていては、それだけで読むこちらが疲れてしまうほどである。だから、テキトーに読み流す。わかりゃいいじゃん、情報さえ得られればOK、というわけである。これでは、一国の「文章ますます雅醇に赴く」(中江兆民『一年有半』)わけはなく、「物質文明の加速度的進歩は典雅なる文化の退廃を招かざるを得ず」(遠隔寺蓬庵主『老耄瘋癲日記』〔偽書〕)と慨嘆してみたくもなる。
 他方、話し言葉の方はどうであろうか。時代とともに生まれては消えてゆく新語・流行語のことは措くとして、日本語の口頭表現にどのような変化が起こっているのだろうか。普段西方の外つ国で暮らしておる小生には直感的には掴みかねるところがある。ネット上での間接的な観察に基づいた推測に過ぎないが、これだけ技術革新のスピードが速いと、それについていける世代とそうでない世代、あるいは同世代であっても、時代の変化についていけている人とそうでない人との間で、言葉遣いも自ずと目立って違ってきているのではないであろうか。
 祖国より遠く離れてひっそりと黄昏れつつある老生は、二重の意味でそのスピードにはついていけていないから、もしそのスピードに乗って行われている会話を傍聴する機会があっても、まるで何のことかわからず、「???」状態になることは、ほぼ火を見るより明らかである。そのとき、天を仰いで、慨嘆、悲憤慷慨し、空しく深い溜息をつくことしかできないであろう。時代についていく努力はすでに放棄し、余生をいずこにて静かに送るか、それだけが将来に対する蓬庵主の真剣な関心事である。
 それにしてもなあ、と往生際悪く独り言つ。普段、日本語を学んでいる学生たちに接していて、いったい何を教えればよいのだろうと、あたかも新米教師のように考え込んでしまうことがある。いつものことながら、老生十八番の「今更話」である。
 それでも敢えて言おう。彼らに伝えるべきは、どこで使っても恥ずかしくない、美しく品格のある日本語であり、私はこのミッションのためにここにいるのだ、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


我が母なる言語を大切にしたいという思い

2021-04-28 23:59:59 | 日本語について

 単に立場上あるいは職業的理由からというだけではなく、普段から日本語の言葉遣いには特に気をつけている。それは言葉の上での失敗あるいは誤解を恐れてのことという消極的な理由からではなく、我が母なる言語を大切にしたいという思いからである。現実にそれがどこまで実践できているかを客観的に判断する基準はないが、心がけとしてこの思いを忘れたことは数十年来ない。この思いの芽生えは高二のときであったと思う。
 このブログもその原則に従って書かれている。というよりも、この原則の実践の現場の一つだと言ってよい。ただ、自分で書きたいことを書いているだけで、人から与えられたお題や強いられた問いに答えることはなく、自分に関心がないこと、嫌悪していること、苦手なことを話題にすることはないから、取り上げられるテーマはおのずと限られており、その中での実践というに過ぎない。それでも実践という言葉を使うことが許されるならばの話だが。
 いわば、使い慣れたトレーニング室で練習を繰り返しているに過ぎず、余所に出稽古に行くこともなく、試合に出場することもなく、コーチについて指導を受けることもなく、人から批評されることもなく、ただ自分独りのために汗を流しているだけのことだ。だから、ひとりよがりで、ほんとうに試合で通用するような実力はついておらず、そもそも資質に恵まれておらず、才能もなく、それどころか、実は悪癖がついているにもかかわらずそれに気づかない、しかも気づいていないのは本人だけという、傍から見れば滑稽でちょっと惨めな、あるいは憐憫の情を誘うような体たらくなのかも知れない。
 ただ、たとえ下手の横好きであろうとも、そして、迷惑かもしれませんが、私は死ぬまであなたを愛し続けます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


他性を宿命的に内在化させている言語としての日本語

2020-12-13 00:00:00 | 日本語について

 この研究の結果から日本語の特異性としてどのようなことが言えるか。昨日の記事で話題にした修士論文を書いた学生に、論文作成中、何度かこう問うた。結局、この問い対する十分な回答は得られないままに終わってしまった。言語現象の表層の分析にとどまったままだった。
 私の考えでは、しかし、ライトノベルに典型的に見られるような一見自由な当て字や振り仮名(というよりも本文脇の並行表記)は、日本語にとっての漢字の本来的な他性・異質性・自律性に由来する。外来の漢字を使わずにはまともな文章を構成することがほぼ不可能なまでに他性を内在化させた言語が日本語なのだ。漢字は、それ自体で、日本語文法と日本語としての常用の読みとは独立に、意味することができてしまう。だからこそ、日本語として慣用的に充てられている通常の読みとは異なる読み(というよりも付加的なシニフィアン)をその脇に並行表記することができるのだ。
 一見して自由の行使に見える振り仮名的並行表記は、日本語の書き言葉は漢字なしには機能不全に陥るという不可避的な拘束が可能にしている結果の一つに過ぎない。振り仮名表記の自由性は、日本語表記の豊かな表現的可能性の現われというよりも、他性としての漢字の拘束から逃れることはできないという日本語の宿命の顕然化なのだ。あるいは、通常の日本語表記が抑圧している他性が並行表記によってその抑圧から解放されていると言ってもよい。しかも、そのことにおそらくライトノベルの作家たちは気づいておらず、標準的な表記から自由になって並行表記を行っているつもりだろう。
 こんなことを論文審査のための講評を書きながら考えているとき、前田英樹が『愛読の方法』の中で次のように述べている箇所に行き当たり、私はとても共感した。

 母語とは根本から異なる言語の文字表記を、母語の表記に用いた日本の古代人は、一方では、公式の文書を漢文で書き、これを訓読した。しかし、他方では、決して漢文に置き換えるわけにはいかない歌や物語や神さまに述べる言葉を、独自の漢字表記を発明して書いた。なぜ、置き換えるわけにはいかなかったのか。訓読される漠文という公式言語に移せば死んでしまう生の曲率が、言葉の運動それ自体としてあったからである。国学者たちの仕事を、深く、止むことなく導いたのは、この直観だった。
 この直観は、彼らを実に遠いところまで、あまりにも遠いところまで導いていったと言える。漢字、漢文という、外国の文字で書かれるものへの抵抗は、やがて文字がもたらす語の諸区分すべてへの疑い、批判、あるいは否定に育った。言葉は、ばらばらに分解できる語の集まりとして意味を構成するのではない。言葉は、生の曲率を顕わしながら繰り延べられていくひとつの運動である。そこに生じては流れ去っていく独特の姿は、律動は、文字にはない。といって、あれこれの声に宿るのでもない。それらのものすべての向う側に、言葉という魂の運動それ自体として在るのだ。万葉歌人は、それをこそ「言霊」と呼んだのではないか。