内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

パスカルの milieu は〈私〉の「居場所」ではない ― 新年のご挨拶に代えて

2025-01-01 06:17:19 | 雑感

 皆様、明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 と書き始めてみたものの、年頭にあたって特に言いたいこともない自分にはたと気づきました。昨年を振り返って感慨に耽ることもなく、新年を迎えて気持ちが改まるということもなく、干支にはまるで関心がなく、今年の抱負を捏造する元気もなく、無無尽(ナイナイヅクシ)の元日です。

 2025という数字を見て、二十一世紀最初の四半世紀の最後の年なのだなあとは思いました。この間の世界の加速度的な変容にはもうとてもついていけず、どこにあっても「居場所のなさ」感が日々つのるばかりです。

 何々から何十年という区切り方はあまり好きではないのですが、戦後八十年というのはやはり重く響きます。

 阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件から三十年ですね。自分が日本で暮らしていた最後の年の大きな出来事だったこともあり、当時の衝撃が今でも鮮明に蘇ってきます。

どうして私の知識、私の背丈は限られているのか。どうして私の寿命は千年ではなくて百年なのか。自然にはいかなる理由があって、私の寿命をそう定め、無限の中で、他でもなくこの居場所を選んだのか。他の居場所より気を引くものは何もないのだから、あれよりもこれを選ぶ理由はないではないか。(パスカル『パンセ(上)』塩川徹也訳、岩波文庫、2015年)

Pourquoi ma connaissance est-elle bornée, ma taille, ma durée à cent ans plutôt qu’à mille ? Quelle raison a eu la nature de me la donner telle et de choisir ce milieu plutôt qu’un autre dans l’infinité, desquels il n’y a pas plus de raison de choisir l’un que l’autre, rien ne tentant plus que l’autre ? (L194, S227, LG183, B208)

(但し、ブランシュヴィック版では、milieu ではなくnombre となっています。この点について、手元にあるどの版にも注記がなく、理由が判りません。前田陽一訳はブランシュヴィック版に拠っているので、当該箇所は「なぜあの数でなくこの数なのだろう」と訳されています。)

 パスカルにおける « milieu » については、2023年10月4日11月1日2日3日の記事で取り上げているので、それを前提にしての話ですが、「居場所」という訳語には違和感を覚えてしまいます。「選ぶ」(choisir)の意味上の主語は「自然」であり、私の意志とも希望ともまったく関わりなく自然が私を置いた「無とすべてとの間(entre rien et tout)」の有限の時空間が milieu なのですから、それは〈私〉の「居場所」ではありえないでしょ、って思うのですが……。