今日は軽く流す。
Jean-Louis Chrétien et la philosophie には « Sens et forme de la fragilité. Entretien avec Jean-Louis Chrétien » と題された談話(2018年に Esprit 誌に掲載)が収録されている。そのなかでクレティアンは、Michaël Fœssel と Camille Riquier の質問に答える形で、前年に刊行された Fragilité の内容について詳細に語っている。
興味深い内容ではあるが、なんか反発を覚える箇所が多くて、読んでいて楽しくない。その反発の由来を一言で言えば、ここまでして fragilité を人間存在の根本様態に祭り上げる必然性がどこにあるのかという疑問である。彼が返す刀で他の類義語を撫で斬りにすればするほど、自身の論拠が掘り崩されるばかりで、結果として議論が破綻しているようにしか私には見えないのである。
その反感をなんとか抑え込んで彼の言わんとするところを捉えようとはしている。一つのイメージは掴めた。外部からのあらゆる襲来に対して何重にも厳重に守られた城館のなかに身を潜めていたとしても、人間存在が fragile であることには何ら変わりはない、というイメージである。この点では、確かに vulnérable(=v) とは違う。自分がそれに対して v であるものから自分を守る、遠ざけることはできるからである。しかし、たとえそうだとしても、何かに対して v であるという性質に変わりはない。
面白いと思った喩えを一つ紹介する。F から逃れようよしても無駄であるということを説明するくだりでホラー映画が喩えとして使われている(p. 147)。自分に襲いかかろうとするものから必死になって逃れようとしてある部屋に逃げ込み鍵を掛けたところ、その部屋のなかに当の襲撃者がいることに気づくのと同じように、F はどこまでも私たちにつきまとうというのである。
これは確かに怖いかも。