諸般の事情で毎日連載というわけにはいかないが、これから「壊れやすさ fragilité」と「傷つきやすさ vulnérabilité」についてかなり長期にわたって断続的に考えていくにあたって、いくつか約束事を決め、若干の予備的考察を示しておきたい。
まず、同じ言葉を繰り返す煩瑣を避けるために、簡略な記号を用いることにしたい。
「壊れやすさ」は F(=fragilité) あるいは f(=fragile)、「傷つきやすさ」は V(=vulnérabilité)あるいは v(=vulnérable) とする。大文字は一般概念・集合全体・範疇等を指し、小文字は特定の分野・領域あるいは個々の事例等を指すときに使う。
昨日の記事のなかで立てた仮説を記号化すると、F∪V が問題の全領域(和集合)、F∩Vが両者の共通集合(積集合)、両者の関係は F≠V、F⊄V、F⊅V となる。
次に、手元の数種の辞書に採用されていた両語の用例から帰納的に導かれる両語間の弁別的差異を示しておく。
どちらもそれ自体が積極的価値を意味することはない。しかし、f は他の積極的価値の可能性の条件となりうる。例えば、繊細な硝子細工の工芸品としての美しさは、壊れやすさと不可分である。硝子のかわりにプラスチックを使えば、作品は壊れにくくなるが、工芸品としての美的価値は明らかに劣る(したがって商品価値も著しく低下する)。ところが、v であることがなにものかの積極的価値の可能性の条件になることはない。ある積極的価値と v とが共可能であることはあっても、後者は前者の必要条件ではない。例えば、コンピュータは水に v であるが、そのこと自体がコンピュータの高機能性を可能にしているわけではない。言い換えれば、水にも v ではないコンピュータがあればそれに越したことはない。
F はそのものそれ自体の性質を示すことが多いのに対して、V は他との関係性として述べられることが多い。例えば、ワイングラスが f であるというときは、グラスそれ自体が f だということが主たる問題なのであり、そのグラスがどのような衝撃に弱いか、どのような条件下でそうかということは副次的な問題に過ぎない。それに対して、戦争状態にある国の特定の地域が v であるということは、その地域が敵国からの攻撃に特に曝されやすいということと、同国の他の地域よりもそうだということとを同時に意味している。
F と V との以上のような用例上の弁別的差異が、ジャン=ルイ・クレティアンの F の哲学とコリーヌ・ペリュションの V の倫理との間に見られる根本問題の設定の仕方の違いを明確化する一つの指標になると思われる。
前者において、F は、個としての人間の存在条件として、多様な形象および表象を伴いつつ、西洋精神史において古代から現代に至るまで通底する本質的要素として考察されているのに対して、後者において、V は、多様で可変的、多層性を孕み、個々の閉鎖系を超え出る開放性を有した関係の束の結節点である人間(および他の生物)の存在様態として、個の実存の次元を超え、政治的・制度的な次元、生態系の次元にまで拡張的に適用される。
F の哲学と V の倫理を相互に排他的な立場としてどちらか一方にのみ与するのではなく、両者を互いに相補的な哲学的考察として読んでいきたいと思う。