内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

新しい社会存在の哲学の構想のために(その4)

2013-10-17 05:44:00 | 哲学

 今日(16日水曜日)の本務校での講義と演習は、正直に言って、ちょっと流し気味であった。学部1年の演習では、来週小テストを授業の枠内で行うので、その説明に時間を取り、その分授業の中身は薄くなってしまった。修士の演習も今日は3つ口頭発表させることになっていたので、その分こちらの準備は少なくて済んだ。おかげでイナルコでの講義のために体力を温存することができた。
 そのイナルコでの「同時代思想」の講義であるが、先週の西田の「場所の論理」に懲りて出席者数ががっくり減るかと予想していたが、16名とそこそこの数字であった。今日の講義のテーマである田辺の「種の論理」については、9月末にアルザスで一度発表していたこともあり、話すべきことはすべて頭に入っていたので、あらかじめ学生たちに送信しておいた講義プラン1枚と1頁にまとめた引用箇所だけを頼りに講義することができた。今年の学生たちは実に反応がよく、集中力が最後までほとんど落ちない。田辺の「種の論理」について説明しながら、ここは誤解を生みやすい箇所だと思って話しているときや、田辺が理論的に矛盾したことを言っている箇所にふれると、間髪を入れずに質問が出た。それがまさにポイントをついているのだ。だからこちらも「良い質問ですね」「まさにそこが問題なのですよ」「それは実際当時彼が批判を受けた点なんですよ」などと質問した学生に感謝しつつ、それらの質問に答えていくことで自ずとプランにそって授業を展開することができた。田辺の「種の論理」に対して当時ありえたであろう唯物史観の立場からの批判について的確な質問を授業中にした男子学生が、授業の後に質問に来た。講義中、「種の論理」に忠実に従うかぎりありえないはずの民族概念の実体化について、私がかなり厳しく批判的に言及したことに対して、国家体制に対する批判のための方法的立場として〈民族〉を社会的事実として認め、それに依拠して体制に抵抗するということは、民族概念実体化とは区別されるべきだし、それは種の論理と矛盾しないのではないかと質問してきた。おそらく、この学生は単に知的レベルが高いだけではなく、自分でも何らかの仕方で政治的実践に関わっているか、あるいはそれに強い関心を持っているのだろうと見て取った。私はその学生に対して、あなたが言う意味でなら確かに民族概念実体化にはならないだろうけれど、〈個人〉と〈民族〉の間に可塑的な媒介項を形成することのほうがこれからの世界では大事になってくるのではないだろうかと答えた。他方、授業の後半になって教室に入ってきた背の高い女子学生が一人いたのだが、初めて見る顔だと思っていたら、授業後に、パリ第1大学哲学科修士2年で、谷崎潤一郎の『陰影礼賛』を研究対象として、美学と倫理学とが交差する問題領域についての論文を準備しているところだと自己紹介に来た。直前にロシア語の授業があり、後半しか出席できないが、来週から毎回出席したいがいいですかというので、講義のテーマに関心がある人たちはすべて歓迎しますからと許可した。
 来週は九鬼周造を取り上げる。『偶然性の問題』が主たる対象である。これは昨年すでに一度取り上げているのであるが、学生たちがもっとも強い関心を示したテーマの一つであった。やはり人間存在の偶然性という問題は自分のこととしてひきつけやすいということもあるからであろう。今年はどうであろうか。来週が楽しみでもある。

 「新しい社会存在の哲学の構想のために」の今日の連載分であるが、見ての通り、明日以降への「繋ぎ」である。

2.2 共有された〈理解〉への情熱
 西田とラヴェッソンは、〈理解〉への情熱の一つのタイプを共有している。このタイプの情熱は、その情熱自体が示す目的性によって効力をもつ統一性の中に多様性を全体として把握することからなっている。この意味で、理解するとは、理解しようとしている自分自身も含めて、すべてを溶融しようとすることにほかならない。このようなタイプの理解は、事象の全体的かつ直接的な把握を目指し、理解する者と理解されるべきものとの間の本性的な類似性を前提としている。西田がラヴェッソンの習慣概念のうちに見出したのは、このような理解の情熱によって世界全体の統一性が再構築される過程なのである。

 明日以降の記事で、西田が自身の歴史的生命の論理とラヴェッソンの習慣論との間にどのような思考の回路を繋いでいくかを詳しく見ていこう。