内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

フランスという国家は、もうダメかもしれない

2013-10-22 05:19:00 | 雑感

 今日、「新しい社会存在の哲学の構想のために」の連載は、お休みする。理由は二つ。一つは、まったく個人的なつまらない事情で、このブログの記事として話題にするにさえ値しない。もう一つは、ここ数日来フランスで起こっていることが私に引き起こした暗澹たる感情である。これもだから取るに足らないではないかと人は言うであろう。しかし、今日は、そのことについて、普段より感情のコントロールを少し緩めて、記しておきたい。腹に据えかねているのである。
 先週土曜日から小中高は二週間の万聖節のヴァカンスに入った。以前は一週間だったのだが、現社会党政権になって、昨年度から変わった。何のためにそうしたのか私は知らない。知ろうという気にさえならない。なぜなら、そんな変更は国家が万民に提供すべき教育の質とは何の関係もないからだ。この点について、大学は、小中高とはさすがに違うのである。新学年が比較的早めに始まる大学は、一週間の休暇が10月末から11月初めにかけてあり、遅い大学にはこの休暇さえない。
 しかし、この違いは、今さら言うまでもないことだとは思うが、大学生の知的レベルが小中高生のそれに比べて高いということを少しも意味しない。まったく、そうではない。フランス語の正しい綴りなど、小学校ではそれが主たる教育目的の一つだからということもあるが、小学生の方がむしろきれいな字で正しく書き、大学生になると滅茶苦茶である。添削する気にさえならない。
 私は、自分が教師として責任を負う学生たちに対してはどこまでも真摯でありたいと思うが、この国の教育行政に関して言えば、もうダメである。今、フランスの大学教育は音を立てて崩壊しつつある。良識あるすべての教師たちにはその音が劈くほどに聞こえているはずである。しかし、肝心の役人たちには何も聞こえていないのであろう。それどころか、彼らは、私たちは「危機感を持って」、現実に対処していると言うであろう。しかし、彼らは向かうべき方向とはまったく違う方向に進んでいるとしか私には見えない。政権がいわゆる右から左に変わろうが、この点、何の変わりもない。むしろ昨年来、悪化の度合いが増し、急速化している。
 この記事の始めにも書いたが、数日来、フランスで現に起こっていることをネット上のニュースで追尾しながら、ちょっと大げさに聞こえるかもしれないが、これからの世界について暗澹とした気分に陥っている。その気分は、直接的にはフランスの現状に起因するが、その根を考えれば、フランス固有の問題と言って済ませられない問題だと私には思える。
 はっきり言おう。この国にもはや未来はない。数百年の文化的蓄積だかなんだか知らないが、そんなものの上に胡座をかいてきたために、この新しい終末論的な、いや黙示録的な時代にあって、何ら為す術がないのだ。ただ大見得を切るためだけであったとしても、もう何のヴィジョンも提示できない。いまさら基本的人権の尊重を嘯く気か。革命の国、自由の国を白々しく謳うか。どんな知識人が、今、政治的アンガージュマンに真剣に取り組んでいるか、私は寡聞にして知らない。革命によってしか国家を変え得なかったということは、漸進的改革ができなかったということであり、したがって、革命とは、旧体制が腐りきって、民衆が怒り、立ち上がり、ようやく生まれたものだということだ。そしてその後は恐怖政治だ。それらは世界に向かって少しも誇るべきことではないのだ。そして、現在のフランスは、その革命さえできなくなった「不能なフランス」でしかないのだ。今の大統領がその象徴だ。この最後の点は、フランス極右の言説とまったく一致してしまうが、それでも敢えてこう言おう。外国人である私が、極右の支持者ではありえないことは自明であろうから。
 先週、コソボ出身の不法滞在の家族の子供である女子中学生を強制連行し、国外退去を執行するということが、社会党政権下、白昼、学校現場で堂々と行われた。しかも、74%の国民が、やり方はまずかったことを認めても、強制退去を「断固執行した」内務大臣を支持している。右にも左にも愛想をつかした国民の支持を極右が集めているのも根は同じ。フランス国民は、自己破産の問題を直視せず、それを極右の言説にすり替え、「外から来た者たち」を敵視する。まるで「おまえたちのせいだ」と言わんばかりである。それは私が日常生活において肌身で感じていることだ。
大学教育研究員という資格で、国家公務員という社会的身分で、こちらが受け入れている労働条件・果たしている義務にどう考えても見合わない薄給で働かせられながら(それはフランス人同僚たちも同じ条件だと言っておかなければ公平さに欠けるだろう)、選挙権も国籍もないこの国にぐずぐず暮らしているべきではないのかも知れない。「パリに客死」などという、半世紀前には流行ったかもしれない文学的幻想で自分を慰めるわけにもいかない。これから自分が働くべき〈場所〉について、真剣に考えざるをえない。