内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

時間の秩序から解放された人間 ― 九鬼周造の時間論についての覚書

2013-10-29 03:31:00 | 哲学

 九鬼周造が1928年にフランスのポンティニーでフランス語でした二つの講演のうち、後者の原題は « L’expression de l’infini dans l’art japonais » であるが、岩波の『九鬼周造全集』第一巻には仏語原文とともに坂本賢三による日本語訳も収録されており、その邦訳タイトルは「日本芸術における「無限」の表現」。この講演には日本の芸術表現の例証として芭蕉の句がいくつか引用されている。次の一句は、日本の詩に見出される循環する時間の理念の例として引かれている。

橘やいつの野中のほととぎす

 『芭蕉全句集』(雲英末雄・佐藤勝明訳注、角川文庫、2010年)には、「花橘の香が漂う中に聞く時鳥の声。いつだったか、どこかの野中でこれと同じ経験をした気がする」という訳が付けてあり、九鬼の解釈もそれとほぼ同様である。ところが、九鬼は、その直後に「次のような注釈を加えることを許されたい」と言って、プルーストの『失われた時を求めての』の第七編『見出された時』から以下の引用をする(訳文は坂本賢三訳をそのまま使う。その他の邦訳が手元にないので比較検討することはできなかった)。

かつて既に聞いたことのある一つの音また嗅いだことのある一つの香が、現実ではないのに実在的、抽象的ではないのに観念的なものとして現在と過去の内に同時によみがえるとき、たちまち、平常は事物の内に隠されている永遠の本質が開放され、時には長く死んでいたように思われながら実は死んでいなかった我々の真の自己が目覚め、もたらされた天上の糧を受けて生き生きとなる。時間の秩序から解放された一瞬が、それを感じるために時間の秩序から解放された人間を、我々の内に再創造したのである。

 九鬼の講演では当然原文がそのまま引用されたわけであるから、その原文も以下に掲げる。

Mais qu’un bruit, qu’une odeur, déjà entendu ou respirée jadis, le soient de nouveau, à la fois dans le présent et dans le passé, réels sans être actuels, idéaux sans être abstraits, aussitôt l’essence permanente et habituellement cachée des choses se trouve libérée, et notre vrai moi qui, parfois depuis longtemps, semblait mort, mais ne l’était pas entièrement, s’éveille, s’anime en recevant la céleste nourriture qui lui est apportée. Une minute affranchie de l’ordre du temps a recréé en nous pour la sentir l’homme affranchi de l’ordre du temps (A la recherche du temps perdu, vol. IV, Gallimard, coll. « Bibliothèque de la Pléiade », 1989, p. 451).

 上の邦訳では「現実ではないのに実在的、抽象的ではないのに観念的」と逆接的になっているところは、「今現在に限定されることなしに実在的」、「抽象化されることなしに観念的」と順接に読んだほうがいいと私は思う。「永遠の本質」となっているところも「永続的な本質」のほうが、少なくとも « essence permanente » の訳としてはいいと思うのだが、ここは解釈の分かれるところなのかもしれない。なぜなら引用の終わりの方で言われている「時間の秩序からの解放」を〈永遠の今〉の経験と取るならば、そこで顕にされるのは「永遠の本質」でよいことになり、この場合は、時間の秩序を超えた、それ自体に同一であるところの本質の経験がここでの問題だということになる。しかし、« essence permanente » をベルクソンの「純粋持続」に近づけて考えてもよいのならば、ここでの「時間の秩序からの解放」は、超時間的な不変の真理の経験のことではなく、空間化された諸事物から解放された純粋持続の経験がむしろここでの問題だということになる。
 しかし、上記二つの解釈のいずれがプルーストの時間論の解釈として妥当かという問題とは別に、九鬼がそこに何を読み取っていたかという問題が立てられなくてはならない。というのも、ポンティニーでのもう一つの講演「時間の観念と東洋における時間の反復」では、「永遠の現在」が問題にされ、それに目覚めることを「垂直的脱我」と九鬼は呼んでいるからである。九鬼の哲学において、「純粋持続」と「永遠の現在」とが終始緊張関係を持っていたと見ることができるのではないかと私は考えている。この時間についての実存的問題が、先週のイナルコの講義の内容を紹介した記事で言及した、現象学的時間と形而上学的時間という二重の時間性の問題として、晩年の押韻論の中で再提起されているというのが私のさしあたりの解釈である。

補注 上のプルーストの原文は、その末尾に示してあるように、プレイヤード叢書版から引用したが、九鬼が引いたのはもちろん当時出版されて間もなかった初版であり、それとは一箇所だけ異なっている。上の引用では "entièrement" となっているところが、初版では "autrement" となっている。それぞれが含まれる節をより正確に訳し分ければ、前者が「すっかり死んでしまったわけではない」となり、後者が「別の仕方では死んでしまっていたわけではない」となる。この初版はこのサイトで全文を見ることができ、サーチエンジンによる特定の表現の検索も容易である。