内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

新しい社会存在の哲学の構想のために(その8)

2013-10-21 01:34:00 | 哲学

 今朝(20日日曜日)は8時からプール。今日も2000m。内訳はクロール600,平泳ぎ100,背泳ぎ1300。この1年ほどは背泳ぎを中心にして泳いでいるが、その理由は、腕を前方にまっすぐ振ることによって背筋をよく伸ばし、胸筋を開くように上体を動かすことで、大胸筋、上腕筋、三角筋を特に強化できるからである。数ヶ月で目に見えてその効果が現れてきた。今日は特に水に乗れて泳げた。そういうときは25mを12ストロークでカバーできる。最近は毎日というわけにはいかないが、こうして日常的に朝水泳をしていると、その日の体調をまずチェックできる。それだけではなく、たとえ最初は体が重く水に乗れないと感じる日も、1000mくらい泳いで体が温まってくると、後は快適で、プールから上がる頃には心身ともにリフレッシュされている。それで、さあ今日も一日頑張るかという気にもなるわけである。
 午前中は、「虚と空」についての論文の校閲者による最終チェックを本文に取り込む作業。校閲者の実に注意深く厳密な作業のおかげで小さな過誤も直すことができ、作業後安心して編集責任者に最終原稿を送ることができた。それ以降は、夕方までベルクソンの『二源泉』再読作業と並行して結論部の覚書を書く。長さだけからいえば完全に時間オーバーになってしまう量をすでに書いたが、まだ結論とするにはぼやけすぎている。『二源泉』の再読をさらに継続しながら、原稿の完成は今週金曜日の締切日を目標とする(締め切りぎりぎりになるのはいつものことである)。

2.6 第三の交点―「実在的直観」と「行為的直観」
 第三の交点はラヴェッソンの「実在的直観 intuition réelle」と西田の「行為的直観」との間の照応に見られる。最も自由な活動の現実形態である意識においては、「はたらくものとはたらきを見るものとは同一の存在者である、というよりは、はたらきとはたらきを見ることとは合一しているのである。作者、劇、役者、観客、を唯一人が兼ねる」(『習慣論』野田訳25頁)。このテーゼは、何らの変更なしに、「見る」ことと「働く」こととの現実的な統一である「行為的直観」の定義としてあてはまる。実際、西田は、ラヴェッソンの「直接的知性 intelligence immédiate」の定義の中に、内的直覚によって把握された行為的直観の、一つの適切な説明を見ている。この「直接的知性」は、習慣の発展過程を通じて反省に取って代わる。反省や意志においては、身体的運動の目的はひとつの観念であり、「実現すべき一つの可能性」であり、したがって、目的と運動の間に距離がある。ところが、習慣の発展過程においては、目的を目指す意志が、目的を実現することができる有機的傾向にその場所を譲るにつれて、「目的が運動と合一し」、「観念は存在となる、観念はそれの決定する運動及び傾向の存在自体且つ全体となるのである」(同書46頁)。

習慣は次第に実体的観念となる。習慣によって反省にとって代わる不明瞭な知性、そこでは客観と主観とが合一しているこの直接的知性は、実在的なるものと観念的なるものと即ち存在と思惟とがその中で合一しているところの、実在的直観である(同書46-47頁)。

 『習慣論』のこれらの箇所に明示的に依拠しながら、西田は、このように定義された実在的直観が行為的直観とは何かをよく説明してくれると言う。実在的直観は、意識の発達過程の到達点で、現実の全体的な知解からなっており、それは、作るものの能動性と作られるものの受動性との生ける統一をなす習慣的な身体運動として受肉される。それが西田の言う歴史的現実の矛盾的自己同一なのである。意識的生命において習慣によってこのように実現された「位置取り disposition」の中においては、知識と行動とは一つである。ところが、現実的直観と行為的直観とを同一のものとみなすことによって、西田は、意識発生の根源に知性と行動との同一性を見出す。しかし、この同一性を、ラヴェッソンは、意識の発達過程の到達点として把握している。

これ[=行為的直観]は意識発展の極致に於て現れるものであるばかりでなく、実は意識発生の根源にあるものであるのである。何となれば、歴史的世界は、作られたものから作るものへと、習慣的に自己形成的であり、我々の意識も此から出て来るものなるが故である(新全集第10巻291頁)。

 これは西田一流の誤解であろうか。ラヴェッソンの実在的直観と行為的直観とを対立させるかもしれない両者の不一致を押し隠すために行われたラヴェッソンのテーゼの不当な一般化であろうか。いや、そうではない。まったく反対に、この見かけ上の不一致は、〈生命〉の進化の全過程を内的に辿り直そうという両者に共通する志向を現実化するために両者が取った方向性の違いに由来するのである。