内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学(その2)

2013-10-02 01:40:00 | 哲学

 今朝(1日)は1週間ぶりにプールに行った。混んでいたが、同じコースの泳者たちがだいたい皆かなりハイペースだったので、比較的泳ぎやすかった。ただ、泳いでいるの溺れかけているのかわからないようなフォームで背泳ぎを続ける青年だけが次から次へと抜かされていっただけであった。帰宅後は、朝から夕食前まで明日の講義の準備。まずイナルコの「同時代思想」の準備。先週話せなかった分だけでも優に1時間はかかるので、その分準備は楽だった。昨日事務に問い合わせて、もし可能ならヴィデオプロジェクターの装備されている教室に変えてほしいと頼んだが、今日になって明いているのは150人収容の大教室だけだというので諦めた。これは私が迂闊だったのだ。夏休み前の担当時間希望調査のときに機材の必要の有無も答えるようになっていたのに、そのときは空欄のまま提出してしまったからだ。漢字熟語や人名をいちいち板書していると時間がかかるのでパワーポイントで準備しておければ楽だと思ったのだが、時すでに遅しであった。代わりに要点をまとめたコピーを配ることにした。できるだけコピーは使わないで、学生たちには資料をすべてウェブ上で配布・管理するように他のすべての授業でしているのだが、イナルコだけはそうもいかないようだ。本務校の「日本文明」のパワーポイントづくりはネットで資料を検索し、それをハイパーリンクとして取り込んでいく作業に結構時間がかかる。しかし、こうしておくと、講義の後それらパワーポイントへのアクセスをクラウド上で可能にするだけで、後は学生たちがリンク先までクリックひとつで簡単に飛べるようになる。興味のある学生たちはそこからさらに自分で知識を広め深めることもできるようになっている。

 さて、今日は「生成する生命の哲学」連載の第2回目。

 たとえそうであるとしても、上記の三人の哲学者の選択はなお恣意的に思われるかもしれない。しかし、メーヌ・ド・ビランは、西田が『善の研究』に集約されてゆく思想の形成期からすでに関心を持ち、場所の論理の形成期にも言及しつづけ、「歴史的生命」の論理が展開される最後期まで親近感を持ち続けた哲学者の一人であったことを忘れてはならない。さらに重要なことは、両者の思考には、それぞれの哲学の根本問題が提起される次元において、明らかに互いに共鳴し合う深い親近性があることである。それゆえ、その親近性が明らかになる問題場面を通じて、西田の哲学的思考をフランス現象学によって開かれる思考空間の原点において捉え、そこからその射程を見定めることは、少なくとも西田哲学に対する一つの観点としては、成り立つと思われる。
 その場面とは、西田の「自覚」とビランの「内感 [sens intime]」とが交叉する場面である。このそれぞれに固有な概念をめぐる両者の議論をつぶさにつき合せるとき、いわば合わせ鏡のように、それらが互いの思考空間の中に映し出され、そして、その過程を通じて、両者の言語空間の間に、新たな哲学的対話の空間が開かれてくる。一方では、内感についてビランが倦むことなく繰り返す精細な現象学的記述を通じて、〈私〉における自覚の内部構造へと導かれ、他方では、根源的自己の存在構造としての自覚の構造について、その定式を徹底的に先鋭化させようとする西田の論述を介して、ビランの内感の存在論的次元へと導かれる。ところが、このように両概念が交叉し、共鳴し合い、両者の親近性が明らかになるまさにその問題場面において、両概念の差異、それぞれの限界もまた照らし出され、それらの限界を乗り越えていくべき方向も示されることに私たちは気づく。自己の内的直接経験としての自覚あるいは内感という問題圏内にとどまる限り、それらの経験の主観的内在性を超えることはできず、世界に対する自己身体の関係を世界の側から捉えることもできず、したがって自覚あるいは内感を世界における出来事として問題化できないことは明らかである。ここにおいて、西田とビランとの間に開かれたこの対話空間に身を置きつつ、その限界を内側から乗り越えるべく、西田哲学の新たな対話者として召喚されうるのが、メルロ=ポンティとミッシェル・アンリなのである。なぜなら、この二人の現象学者は、内的に直接経験される主観的身体というビラン哲学の根本問題を現代において改めて提起し、それをまったく対立する方向へと徹底化させていったからである。
 自覚と内感との交叉によって西田とメーヌ・ド・ビランとの間に開かれた対話空間において、直ちに導かれるのが、内的に直接経験される生命の次元であるとすれば、知覚世界を主題化するメルロ=ポンティと共に、自己身体がそこにおいてある場所を考察することによって導かれるのが、行為的世界における生命の次元であり、自己の自己による直接的な触発そのものを〈生命〉とするミッシェル・アンリの生命の現象学との対決を通じて、「形が形自身を限定する」創造的世界の弁証法的構造を分析することによって導かれるのが、歴史的実在の世界としての生命の次元であると言うことができる。