日曜日、プールは8時から。明日月曜日はプールに行けないので、普段より少し長めに2200メートル泳ぐ。帰り道にパン屋と日曜日午前中だけ開いている近所の小さなスーパーで簡単な買い物を済ませる。午前中に小林論文仏訳全体の見直し。特に大きな誤訳はないと思うし、フランス語としての通りも悪くないとは思うが、やはりネイティヴチェックは欠かせない。世代の違うフランス人の友人2人に早速元原稿といっしょに送る。2人とも日本語がよくできるし、哲学畑の研究者でもあるから、とても頼りになる。
午後は自分の発表原稿の作成。利用する自分の博論の部分の見直しから始める。博論第5章で西田によるラヴェッソン習慣論解釈を入念に分析したので、ここは基本的にそのまま使える。これに西田のベルクソン批判の焦点である空間論が、西田をメーヌ・ド・ビランの習慣論に、そしてラヴェッソンのそれへと近づけていったことを前置きとして述べ、西田とラヴェッソンとの比較論の結論から、新たな社会哲学の構築への展望を示し、そこに『道徳と宗教の二源泉』のベルクソンが新たに召喚され、さらには田辺の「種の論理」も組み込まれる可能性を示して締めくくるというのが全体の構想である。
さて、「生成する生命の哲学」の連載は、今日から西田とメルロ=ポンティとの比較論に入る。
三、行為的世界における自己形成的生命 ―〈行為的身体〉と〈知覚的身体〉の区別と関係 ―
最後期西田の身体論には、『知覚の現象学』と『眼と精神』におけるメルロ=ポンティの身体論のいくつかの基本的テーゼと著しく類似した論点が見出されることは、夙に指摘されているところであるので、本稿では、両者の決定的な相違点を明らかにすることを通じて、行為的直観という概念によって開かれてくる西田哲学固有の地平を、生命の哲学の行為的世界の次元における展開として考察することに力点を置く。
(1)「見るもの-見えるもの」である身体と「外から見られる」身体
西田の身体論において、自己身体は、主観的なものでも客観的なものでもない。それは、それ自身によって、それ自身において、贈与と受容との二極間の弁証法的関係、すなわち「見ることと働くこととの矛盾的自己同一体系」を構成するものである。ここで「見る」とは「形」を受容することであり、「働く」とは「形」を与えることである。我々の身体は、何かを見るとき、見られた対象の形と見ている自分自身の形とを、その対象と自分自身とに与えつつ、同時にそれらを受容する。見ることによって、我々の身体は、諸対象の只中に投げ入れられ、まさにそのことによって、行為の世界がその身体に対して開かれる。行為によって、我々の身体は、諸対象が形成する構成形態の中に自らを置き、まさにそのことによって、その身体が他の見えるものとの関係において見えるものとなる視野が開かれる。このようなパースペクティヴから、西田は、同時に見るものであり見えるものであるという自己身体の根源的な存在様式を、「非連続の連続の関係」と呼ぶ。西田の身体論をこのように要約することができるとすれば、それはメルロ=ポンティの身体論に極めて近い立場に立っていると言うこともできるだろう。しかし、まさにそのように両者が接近する場面においてこそ、その決定的な差異もまた見極められなければならない。
身体というものなくして、我というものはない。併し我々は身体を道具として有つ。我々の身体も外から見られるものである。併し我々の身体は見られるものたると共に、見るものである。身体なくして見るということはない(新全集第8巻49頁)。
この一節には、メルロ=ポンティ身体論の基本的テーゼの一つ「私の身体は見るものであると同時に見えるものである」との明白な類似性が認められることは論を待たないが、と同時に、両者の身体観を厳密に区別するための相違点も読み取ることができる。メルロ=ポンティにおいて重要なのは、現象的身体あるいは自己身体が自己自身に見えるものとして現れるその固有の仕方である。私の身体は、私にとって見える現象として恒常的に生きられている。ここで問題になっている恒常性とは、「眼前から姿を消すこともありうる諸対象、つまり本来の意味での対象の、相対的恒常性の基礎となる、絶対的な恒存性」なのである。自己身体は、同時に私でありかつ私のものである。私は自己自身を自己身体において、一つの内在性の外在性として、或いは一つの外在性の内在性として捉える。自己身体が自己自身に現れるのは、世界を「いっさいの規定的な思惟に先だって、これもまたたえず現存している、われわれの経験のかくれた地平」として現れさせることによってなのである。
ところが、西田においては、自己身体の可視性は、何よりもまず、「外から見られるもの」であるということである。これは次の二つのことを意味する。第一に、身体は、自己自身を見ることそのことによって自らに外在性を与え、しかも、この外在性の自己贈与は、自己身体の内感の事実とはまったく独立に取り扱われていることである。第二に、自己身体の客体性は、我々の身体が見えるものとしてそこに生きている空間に、別の見るものが存在することを暗黙の内に前提していることである。人間の身体が外からそれとして見られるという事実は、自己自身にとってと同様に他の諸身体にとっても、それら身体すべてに共有された空間において、見える一対象であるという自己身体の存在論的性格を含意している。
メルロ=ポンティにおいては、自己身体は恒常的に最も近くから見られたものという特権的な場所を占めており、それゆえ、自己自身にとって見える自己身体と、他の諸身体あるいは諸々の対象物のように多かれ少なかれ距離をおいて見られる諸要素との区別と関係が問題とされる。ところが、西田においては、自己身体を見るということは、ただそれが外から見られるということしか意味しないので、そのような問題は提起されることがない。行為的直観によって開かれた空間において、自己身体は、他のすべての見えるものと同様に外から見られるという点においては、何ら特権的な位置を占めるものではない。つまり、自己身体とは、自己自身によって、他の諸身体や見える諸対象と同様な見える対象として取り扱われ、他の見るものたちが見るように、自己自身を見ることができるものなのである。しかし、このことは、自己身体を任意の第三者によって見られた客観的身体として取り扱うということを意味しているのではない。ここで問題になっているのは、自ら自己自身を、他の諸対象の間に見出される一対象として、自らによって生きられている空間において見ること、すなわち自己身体による前反省的自己客体化という、あらゆる客観的認識に先立つ作用なのである。