内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学(最終回)

2013-10-12 02:04:00 | 哲学

 今朝(11日)は7時から8時までいつものプールで泳ぐ。まあまあ快適だった。途中でどれだけ泳いだかあやふやになってしまったが、身体感覚としてはいつもより多く泳いだと感じられるので正味45分で2200メートル位だろうか。最初の500はクロールで体を温め、その後は背泳ぎがほとんど。ときどき平泳ぎでゆっくり流したり、クロールでペースを上げたりする。
 帰宅後は1日自分の発表原稿に集中しようとしたが、あれこれメールが入り、その処理で時々中断。先日、小林論文の仏訳のネイティヴチェックをお願いした2人からは、昨晩と今朝、相ついで朱の入った原稿が返ってきたが、どちらも迅速かつ注意深く読んでくれての訂正案。原テキストの難しさはそれとして、翻訳上は大きな問題はどちらの添削を見てもなかったようだが、やはり自分で見直しただけでは見つけることのできない誤りが必ずあるもので、快くしかもこんなに速く見てくれた2人には心から感謝している。これで25日の締め切りまでたっぷり時間的余裕をもって仏訳決定稿を仕上げることができる。すぐにお礼のメールを送り、ついでに今度は私自身の原稿ができたら見てくれるようあらかじめお願いしておく。
 その自分の原稿についてだが、博論の中の西田とラヴェッソンの比較検討の部分を再読してそれを口頭発表用に編集することから始めたが、発表時間30分から35分という枠に収めるにはまだ長すぎる。しかし、一旦このままにしておいて、明日・明後日で問題の端緒を開く導入部を書き、来週末には結論部を書き上げてから、もう一度立ち戻ることにする。今日はもう原稿作成そのものはせず、導入部で引用する Dominique Janicaud の Ravaisson et la métaphysique. Une généalogie du spilitualisme français, Vrin, 2e édition, 1997 の当該箇所の前後も含めて読み直すことにする。初版は1969年だが、いまだにこれを凌駕するラヴェッソン研究はなく、ラヴェッソンに関心を持つすべての人にとって最初に読むべき必読書である。特にラヴェッソンの『習慣論』を理解するには『習慣論』そのものより先にこの本を読むべきであると言う研究者さえいるほどである。私もラヴェッソン研究はこの本が頼りだが、そればかりでなく、フランス式の哲学研究のお手本の1つだと考えている。

 さて好評連載(って自分で言っているだけですが)「生成する生命の哲学」も今日が最終回である。この節は短いが、ここに以後10年間の私の研究の出発点がある。その出発点とは、哲学の根本動機は、真理の希求、存在の神秘を前にしての驚き、揺るぎない確実性を求めての徹底的懐疑、それらいずれに還元されるものでもなく、もっと深いところでそれ自体として感じられる、いかなる言表によっても汲み尽くされることのない根源的な情感、西田が「深い人生の悲哀」と呼んだものがそこで感じられる〈場所〉にあるということの自覚である。この〈場所〉を私は根源的で無限な「受容可能性 passibilité」と呼ぶ。そこへと方法的手順を踏んで溯源し、そこからこの世界を見、そしてその世界の中のある場所である限定された生の形を受け入れ、そこにおいて受容可能性の現実的顕現として働くこと、それこそが哲学であると私は考える。

五、生命の哲学の領野としての「自己身体の内的空間」
 「自己身体の内的空間」として問題化されるのは、受容可能性としての空間である。つまり、我々の身体を歴史的生命の世界における一つの自己形成的な形とするばかりでなく、内側から自らを感じる形とする有限な情感的空間である。それは西田が未踏のままに終わった生命の哲学の領野である。
 世界の現れが自らを自己の外に置くことにとどまるかぎり、自己身体の内的空間に対して超越的な世界は、その世界に現れるあらゆることに対して非受容的であり、無感覚のままである。ところが、諸々の形の構成形態として自らを限定することによって、世界は、〈働くもの-受容するもの〉である身体へと到来し、この身体によって迎え入れられ、その内において感受され、そこにおいて〈受容するもの〉として自らを経験する。かくして、自己身体の内的空間において、世界は自らの内において起こっている出来事に対する情感性を持つようになる。自己は、超越的外在性と区別され、有機的抵抗によって限界づけられた内的延長と同一化されるかぎり、他なるものとの関係においてそれとして経験される。この内的延長が自己身体の内的空間であり、そこで自己は自ら自己を絶えず迎え入れると同時に、他なるものは諸感情を通じてこの情感的な空間そのものによって経験される。このような媒介的な有限空間は、異質なものを排除する超越論的自我の支配にも、無限で無関心な外的空間に由来する自己の疎外にも抵抗する。そこにおいて、様々な感情は互いに他に還元できないものとして、今ここで受容されるのである。西田が哲学の動機とした「深い人生の悲哀」が哲学の情感的起源として感じられるのは、まさにこの空間においてである。