内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

すべての人にとって同じ内なる精神的宇宙 ― ルイ・ラヴェルからジンメルへ

2013-10-31 04:23:00 | 哲学

 今日(30日)ずっとGeorg Simmel の Philosophie de la modernité (Payot, 2004) を読んでいた。この本は、9月1日の記事でジンメルのことを紹介した時に引用した。同書は1989年に二分冊で出版された旧版を一巻にまとめたものなので、仏訳者である Jean-Louis Vieillard-Baron による序論は、第一部と第二部とにそれぞれ置かれているのだが、どちらも40頁ほどあり、実に行き届いた懇切丁寧なジンメル哲学の紹介になっている。その中で、訳者は、19世紀から20世紀にかけての哲学思想史の中にジンメルの哲学を位置づけつつ、その特異性を浮かび上がらせようとしている。ベルクソンとの比較が頻繁に出てくるのは、両者が20世紀哲学史の中で「生の哲学」というレッテルでしばしば一緒に括られてきたことから、まったく当然のことだが、訳者はむしろ両者の決定的な違いの方を明確にしようとしていて、その論述はとても示唆に富んでいて教えられるところが多い。他方、ルイ・ラヴェルが引用されていたのは、ちょっと意外だったので、私の注意を特に引いた。それは、〈私〉の構想における個体性と普遍性の関係を問題にしている箇所でのことなのだが、訳者によると、ラヴェルの中にこの関係の正確な例証が見られるとして、ラヴェルの三つの著作からそれぞれ短い一節を引用しながら、その点について以下のように説明している。

意識は、「私たちそれぞれの中で揺れ動き、震え、欲望し、苦しむこの個別的存在」を私たちに現前させる。「しかし、それを自覚することは、その存在と自己同一化することを止めることである」(La Conscience de soi, Paris, L’Artisan du Livre, 1946, p. 6 ; Grasset, nouvelle édition précédée d’une préface de l’auteur, 1951, p. 19 ; Christian de Bartillat, 1993, ibid.)。そして、精神のそれ自身に対する内密性をよく知るとき、それは個別的でありかつ普遍的である一つの現実を私たちに開示する。「自身の内密性を打ち明ける者は、自分自身について語るのではなく、その者が内に抱いており、すべての人にとって同じ精神的宇宙について語っているのである」(L’erreur de Narcisse, Paris, La Table Ronde, 2003, p. 57)。ここでは、だから、個人の運命が、近代の個人主義の只中にあって、実存の宇宙への登録として、すべての人にとって同じ精神的宇宙への登録として考えられているのである。ラヴェルが「形而上学の独自性は、私たちに精神的内密性の普遍性を発見させることである」(De l’intimité spirituelle, Paris, Aubier, 1955, p. 111) と書くとき、それは、ジンメルの偉大な形而上学概論『生の直観』への導入の役割を果たすことができるだろう。このジンメルの著書は、1925年にウラジーミル・ジャンケレヴィッチがその紹介論文を書くことになるが、当時ジャンケレヴィッチはプロティノスとベルクソンの思想にすっかり沈潜していた(Simmel, op. cit., p. 49)。

 個別的存在であるこの〈私〉の精神の内密性において開示される、「すべての人にとって同じ精神的宇宙」という思想が、ヨーロッパ思想の過去の遺産として祀られているのではなく、今に継承されるべき生きた思想と受け止められていることは、ジンメル、ベルクソン、そしてルイ・ラヴェルが今日また新たに読み直されているという事実がよくそれを示している。