内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

新しい社会存在の哲学の構想のために(その6)

2013-10-19 00:35:00 | 哲学

 今朝(18日)は、日曜日以来5日ぶりのプール。2300メートル泳ぐ。午前中は依頼された仏訳のチェック。午後は小林論文の仏訳の仕上げ。2時間ほどで済んだ。すぐにシンポジウム主催者に送信する。これでシンポジウム前の仏訳の仕事はすべて終了。これで残りの時間は自分の原稿に専念できる。
 以下は連載の続き。ラヴェッソンの『習慣論』からの引用は断りのないかぎり、岩波文庫版野田又夫訳。原文の引用は昨日の記事で引用したPUF版を原則として使用する。

2.4 第一の交点 ― 生命の始まりについてのテーゼ
 西田とラヴェッソンの哲学が交差する第一点目は、生命の始まりに関するテーゼにおいて見出すことができる。ラヴェッソンによれば、〈生命〉とは、「時間に於ける継起的統一(unité successive dans le temps)」であり、〈有機組織(organisation)〉とは、「空間に於ける異質的統一(unité hétérogène dans l’espace)」である。この「継起と異質性とともに、個性〔不可分割性〕(individualité)が始まる。」「生命とともに個性が始まる。故に、生命の一般的特質は、世界の眞中に、一にして不可分な独立の世界を形成するということである。」このラヴェッソンの生命論に対して、西田は、自らの自己形成的世界の論理に従いつつ、その固有の術語を使って次のような解釈を加える。

個性的生命が成立すると云ふことは、論理的には、時間空間の矛盾的自己同一的に、世界が自己の中に自己表現的要素を含むと云ふことに他ならない。習慣とは、かゝる世界の自己限定として、形が形自身を形成する、形の自己形成作用に他ならない(「生命」、新全集第10巻、283頁)。

 このようにラヴェッソンの習慣を個性的生命の生成とともに現れる自己形成作用とを同一視することによって、西田は、習慣を自己形成的歴史的生命の世界の只中の自己形成の原理として位置づけるのである。