内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

冬時間への切り替え ― 思索の季節の到来

2013-10-28 00:08:00 | 雑感

 27日日曜日午前3時に中央ヨーロッパ時間は冬時間に切り替わった。時計の針を1時間戻して午前2時にする。コンピューターやスマートフォンは自動的に切り替わるから、何の操作もいらないわけであるが、腕時計、置時計、ステレオの内蔵時計などは手動で切り替える。10月最後の日曜日は、だから、25時間になるわけで、土曜日の夜からその分余計にはしゃごうと集まる若者たち、あるいは、いつもより1時間ゆっくり寝ようという人たちなど、それぞれにこの1時間長い一日を楽しもうとする。
 ヨーロッパでは、1973年のオイルショックの翌年1974年に、電力消費節約のために、日照時間の長い春から秋口にかけて時計を1時間早めて、仕事を早く始めて電気をつけないで済む時間帯に仕事を済ませるようにしようという意図から導入されたサマータイム制として、年2回のこの時間の切り替え(3月最後の日曜日と10月最後の日曜日)が行われるようになった。17年前に初めてこの夏時間から冬時間への切り替えを経験したが、そのときはフランス人の友人が親切に電話で前日に知らせてくれたのを覚えている。
 夏時間から冬時間に切り替わる10月最後の日曜日と、逆に冬時間から夏時間に切り替わる3月最後の日曜日の前後には、このサマータイム制の有用性がメディアでもよく話題になる。原子力発電によって電力は十二分に足りていたフランスは、もうサマータイム制を廃止しようという提案をヨーロッパ議会にしたことも、10年ほど前だろうか、あったと記憶しているが、廃止するとしてもそれに伴う様々な変更措置のための経済的負担が大きいなどの理由で、その提案は却下されたという新聞記事を読んだ覚えがある。他方、夏時間への切り替えのときは1時間時計を早めることになるので、寝不足になりがちで、特に子どもたちの健康への影響が懸念されるという理由から反対論を唱える人たちもいる。私自身は、賛成反対はともかくとして、個人的には嫌ではない。冬時間への切り替えと逆で、急に日没が1時間遅くなり、それが早くも夏の到来を予感させてくれるからだ。
 冬時間への切り替え時には、これまでのさまざまな思い出とともに、何か心を沈ませるような、でも他方では心を落ち着かせるような微妙な気持ちを毎年抱く。まず、単純に、時計上は前日と比べて日の出・日の入りが1時間早まるわけである。具体的に言うと、昨日まで8時半頃だった日の出が急に7時半になるわけだが、朝プールに行く時などは、これはむしろ気持ちを明るくしてくれる。他方、当然日没も1時間早くなるわけで、6時40分くらいだったのが突然5時40分になってしまうのである。これはパリでの日の出・日の入り時間のことで、私が最初に暮らしていた街ストラスブールはフランスの東端であり、20分余り日の出・日の入がパリより早い(ちなみに、ブルターニュ地方西端の街ブレストはパリより30分近く遅い)。したがって、冬時間に切り替わると、ストラスブールでは5時過ぎにはもう暗くなり始める。これが最初はひどく身にこたえた。何か突然日が短くなってしまったような錯覚に陥ってしまったのだ。もちろんこれは時計上の変更に過ぎず、日中の時間が急に短くなったわけではないのだとわかっていても、気持ちの上でははっきりと影響が出てしまった。冬時間への切り替えから1,2週間で、日没は5時前になり、フランスは幼稚園・小学校低学年でさえ午後4時半に終わるのが普通だから、子どもたちの下校時刻にはもう夕闇が迫っているのである。11月後半ともなれば、朝まだ暗いうちに登校し、下校時にはもうすっかり日が落ちてしまっているということになる。これが冬の間ずっと続く。
 そんなわけで、冬時間への切り替えが来ると、ちょっと大げさな言い方だが、一日の活動時間のうち、日のある時間帯が削られ、闇に覆われた時間帯が急に長くなったような印象を拭い難く、気持ちが沈み込みやすい。このような気分は毎年多かれ少なかれ味わうことになる。フランス人たちにとっては約40年来のことですっかり慣れているわけであるから、そんなことはないのかというと、やはり同じような気分を抱きやすいようで、だから冬時間への切り替えは嫌いだと言っている人たちもいる。実際、11月には、鬱状態に陥る人たちが増えると聞いたこともある。
 他方、この切り替えは、外光へと向かう身体的志向性を抑制し、室内の光の中での安定性を志向させ、心に落ち着きを与えてもくれる。その変化が自分自身の思考への集中を自ずと促してくれるのを感じる。この意味で、冬時間への切り替えは、思索の季節の到来をはっきりと徴づけてくれているとも言うことができる。