内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

戦中日本におけるもう一つの近代の超克の試み(五)― 時枝とフッサール現象学との出会い

2017-03-03 19:03:02 | 哲学

 『講座 日本語の文法 1 文法論の展開』(明治書院、昭和43年)の巻頭に置かれているのは、「時枝文法の成立とその源流 ―鈴木朖と伝統的言語観」と題された時枝の講演記録である。当初の計画では、時枝自身が巻頭論文を書く予定であったが、病状の進行からそれが無理になり、その代わりとしてこの講演記録が収められたという経緯がある。この講演は、時枝の死の前年の昭和四十二年(1967)の六月七日、鈴木朖の没後一三〇年記念祭に鈴木の生地名古屋に呼ばれて行われた。本書に収められた記録は、その講演の録音をできる限り忠実に文字化したものである(鈴木一彦による「あとがき」による。27頁)。
 すでに二月二十七日の拙ブログの記事で触れたことだが、時枝が書くはずであった論文の題名は「『時枝文法』は時枝文法に非ず」だった。その題名に込められた時枝の意図については、同記事に引用してあるので繰り返さないが、講演記録はその意図に沿って行われたものではないし、誤解も招きやすいとの編集委員たちの判断で、上掲のような「素直な」題名に変更された。
 この講演の中で、時枝は、鈴木朖の著書と自分との出会いから説き起こし、それに付随した自分に関係したこと並びに当時の自分の感懐・見解等を、時の流れに沿って、生き生きと語っていく。それらの箇所を読むと、時枝が当時の日本の言語学の主たる傾向にどのような違和感を覚えていたかがよくわかる。

ヨーロッパの学者のやっていることに近いことをやったから価値があるということは、どうも受け取れないんじゃないか。[...]ヨーロッパの学者のやったことに近いからじゃなくて、日本の国語の研究が、ある流れにおいて、一つの歴史的位置を占める、そういう意味で価値があるんじゃないかというふうに、私は考えたわけです」(3頁)。

 時枝は大正十三年(1924)に学部卒業論文を提出している。その卒論の中で、日本の国語研究の歴史を古代から近世まで辿り直しており、その一環として鈴木朖の三部作『言語四種論』『雅語音声考』『活語断続譜』も考察対象となったのである。ところが、その当時は、『言語四種論』での鈴木の真意がよくつかめなかったという。
 同書についていくらかものが言えるようになったのはずっと後のことで、その手掛かりを与えてくれたのが山内得立の『現象学叙説』だったという(時枝講演の中では『フッサールの現象学序説』となっているが、これは時枝の記憶違いである)。同書は昭和四年(1929)に初版が刊行され、以後何度か増刷されている。時枝が同書を読んだのがいつごろか正確にはわからないが、勤務先の京城大学の同僚の哲学研究者の宮本和吉(1883-1972)の指導を受けながら『現象学叙説』を読むことで現象学について勉強したという(12頁)。
 宮本の京城大学勤務期間は昭和三年から十八年まで、時枝のそれは昭和二年から十八年まで。つまり両者はほとんど重なっていたわけである。
 李暁辰(関西大学)の論文「京城帝国大学と台北帝国大学の開設と哲学関連講座」(文化交渉 東アジア文化研究科院生論集 第 2 号、2014)に示された京城帝国大学の哲学関連講座の担当教員一覧を見ると、六番目の帝国大学として大正十三年に創設された京城大学の哲学関連講座を担当した教員は全員が東京帝国大学出身者であり、京都学派との繋がりについては、安倍能成(1926-1938)を介しての間接的な接点しか推定することができない。因みに、同論文によれば、昭和三年創設された台北帝国大学の哲学関連講座は、東洋哲学担当者を除いて、全員京都帝国大学出身者である。その中には、京都学派の務台理作(1928-1934)、柳田謙十郎(1929-1940)の名前も見られる(括弧内は在任期間)