内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

隠し味

2017-03-16 22:29:40 | 雑感

 今日から連載「戦中日本におけるもう一つの近代の超克の試み」を再開するつもりだったのですが、昨晩カテドラル近くのカフェ・レストランで行われた日仏の学生たちの懇親会でちょっと飲み過ぎ(だって、とても楽しい会でしたから)、今朝は日課の水泳もサボって八時過ぎにようやく起き出し(普段は五時起床だから、ちょっと個人的罪悪感を懐きつつ、でも、たまにはこれくらいいいじゃんって開き直り)、午前中はメールの処理やらオフィス・アワーやらであたふたとキャンパスで過ごし、午後は自宅で一昨日の日本古代史の試験の答案の採点に費やし、やれやれ採点終わったぜ(何枚かこちらの出題意図をちゃんと理解してくれたすごくできのいい答案があって、採点もその分楽しかったけど)と窓外に目を転じれば、もう日暮れ時でした。
 今朝からというか、ここ数日ずぅ~となんですが、気になっている来週土曜日のシンポジウム(こちらがそのフライヤー)での仏語発表原稿(まだ一行どころか一文字も書いてないんですよ。どうするの?)は、明日から書き始めることにして(まあ、その気になれば一日で書けるさって、どこから来るのか自分でもわからない根拠なき過信で己を鼓舞し)、夕食後の今(つまり、もう仕事はしない、というか、できない時間帯に、なぜって、性懲りもなく夕食時に飲むからですが)、眼前の書斎の机の上に積まれているのが、以下の五点の書籍です。

Monique Dixsaut, Platon, Vrin, 2012
Hervé Le Bras & Emmanuel Todd, L’invention de la France, Gallimard, 2012
Le mystère français, Seuil, 2013
Alain de Libera, La querelle des universaux, Seuil, « Points Histoire », 2014
Étienne Balibar, Des Universels, Galilée, 2016

 これらの著作に共通している問題は、普遍的であるとはどういうことか、という問いです。言うまでもなく、この問いは、これらの著作できわめてヨーロッパ的な文脈で提起されています。これらの著作が来週のあんたの発表と何の関係があるの? さっさと自分の原稿書いたらどうなの? って思われる方もいらっしゃることでしょう。
 ご説、ごもっともでございます。でもね、恐れながら申し上げますと、時枝誠記が日本語という個別言語の探究を通じて言語本質観を立ち上げるときの根本的な問いがまさに個別(あるいは特殊)と普遍との関係なのです。つまりですね、これらの著作の中身は(ここだけの話にしておいてくださいよ)、私の発表にとっての「隠し味」なんですよ。
 はぁ~、なんか知らんけど、疲れたぁ、今日は。もう何も考えられん。ユーカリエキス入りのお風呂にどっぷり浸かってから、寝ます。