内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

戦中日本におけるもう一つの近代の超克の試み(十三)― 比喩の陥穽

2017-03-11 18:51:43 | 哲学

 昭和十六年に刊行される『国語学原論』(以下『原論』と略記)は、昭和十二年から同年にかけて発表された十数の論文をまとめることによって成り立っており、各論文のそれぞれの執筆当時の意図とそれらが『原論』に統合化される際に同書の中で与えられた位置づけとの間にずれがあり、そのことが『原論』を難解な書にしているところがある。
 しかし、そのような『原論』構成上の難点と、『原論』の理論構成そのものに内含されている困難とは区別されなくてはならない。なぜなら、後者の問題は前者の問題には還元されえず、後者こそが私たちが慎重に考察しなければならない問題だからである。
 言語は、その存在条件として主体・場面・素材の三者を必要とする。これが『原論』の基礎的テーゼである。このテーゼを少し展開してみると、個々の言語(ラング)は、主体・場面・素材を根本条件とする一般的言語過程においてのみ言語として機能する、ということになる。言い換えれば、言語は、誰か(主体)が、ある状況において誰かに対して(場面)、何物か或いは何事かについて(素材)語ることによって成立する、ということである。
 一見すると明快な主張のようであるが、何か納得し難いところがあると感じた人は論文発表当時から少なくなかったのであろう。『原論』「総論」で、時枝は、主体・場面・素材の三者の関係について様々な比喩を持ち出して説明に苦心している。
 ところが、それらの比喩は、時枝理論の理解を助けるどころか、むしろ時枝本人の意図を裏切り、無益に問題を複雑化し、挙句いらぬ誤解を生み出す原因にさえなっているように思われる。それらの比喩的説明が引き起こすそのような混乱と困難は、しかし、時枝が不注意にも不適切な例を引き合いに出したから生じただけのことなのであろうか。
 私には、それらの比喩の中に言語過程説の根本問題が期せずして露呈してしまっているように見える。