内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

戦中日本におけるもう一つの近代の超克の試み(十七)― 言語過程説に見られる主体概念の「捻れ」について

2017-03-18 18:44:56 | 哲学

 『国語学原論』第一篇総論は、岩波文庫版で百五十頁余りだが、その中に「主体」及びそれを含んだ表現が現れる頁は百頁を超える。つまり、全体の三分の二を超えるほどなのである。今回の発表のために文庫版上巻に関してのみ「主体」並びにそれを含む表現(「主体的立場」「主体的意識」「言語主体」等)の索引をエクセルで作成したのだが、もううんざりした。
 しかし、この機械的作業の最中にところどころ内容を理解しようと繰り返し読んだおかげで、『原論』における主体概念の奇妙な「捻れ」に気がつくことができた。索引なんか作成しなくても、そんなことはちょっと読んだだけでさっとお分かりになる明敏な方たちも少なくないであろうが、愚鈍な頭脳の持ち主である私の場合は、このような手作業にいくらかの時間をかけることではじめて、読解が徐々に深まっていくのだから致し方ない。
 喩えて言えば、トップ集団からは何周も遅れてやっとのことでゴールって感じだろうか。そのゴールの瞬間だけ写せば、トップランナーたちと「同じ場所」に到達したようにも見える。でも、他の選手たちはとっくにゴールしていて、もうそこにはいないのだ。ところが、そういう結果ならそれはまだましな方で、遅いうえにコースから外れてしまい、挙句の果てに道に迷って独り途方に暮れてしまうなんてこともある。
 くだらん前置きが長くなってしまった。さて、『原論』における主体概念の捻れである。それに気づいたのは、『原論』総論第十節「言語の社会性」を読んでいたときのこと。僅か七頁のこの節にも「主体」並びに「主体的な表現過程」「主体的な目的意識」「主体的な表現行為」「主体的な表現目的」「言語主体」「主体的立場」などの表現が用いられている。「主体」「言語主体」「主体的な動的な言語事実」「主体的立場」は複数回出てくる。
 この節でも、言語過程説の基本的テーゼが前提とされているのは言うまでもない。言語の本質を専ら主体的な表現過程と考え、言語を個人の外に存在し、個人に対し拘束力を持つ社会的事実であるとする考えに反対するというのがその主旨である。他方、何らかの社会的な拘束力が私たちの言語生活を規定していることは、時枝もこれを認めざるをえない。時枝自身が挙げているそのような例の中から一つ選び、それを今風に言い直せば、学生は教師とはタメ口をきいてはいけない(って、現実にはそうでないケースもあるが、今はそれは措く)。
 つまり、一方で、言語が個人にとって社会的拘束力を持つ外在性であることを否定しつつ、他方で、或る社会内での個人の言語使用は一定の拘束を受けることを事実として認めるのである。
 ところが、言語それ自体の社会的拘束性の原理的否定と、現実の言語使用の社会的拘束性の事実的肯定という、同節に見られるこのような二重の前提が、主体概念に関して奇妙な帰結をもたらしてしまうのである。