内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

孤独な「主体」たちと「束の間の共同体」

2017-03-25 07:50:01 | 哲学

 昨日の記事でナンシー先生の著書の脚注からそのまま引用した Lydie Salvayre の Hymne の一節を、同書の原本に拠って中略部分も復元して再度引用する。

En jouant The Star-Spangled Banner, ce matin du 18 août 1969 à Woodstock, Hendrix fit renaître le sentiment d’une fraternité dont les hommes étaient devenus pauvres, et prêta vie à cette chose si rare aujourd’hui qu’on appelle, j’ose à peine l’écrire, une communauté, une communauté formée, là, dans l’instant, une communauté précaire, heureusement précaire, non pas une communauté de malheur comme il s’en forme chaque jour (on dit que le malheur rapproche et cette idée me fait horreur), non pas une communauté complaisamment apitoyée ou romantiquement doloriste, ni une communauté sous narcose, je veux dire religieuse, non, non, non, mais une communauté de solitaires, chacun plongé entièrement dans sa musique, chacun y trouvant domicile, mais au rythme de tous (p. 191).

 「束の間の共同体」という表現はそれだけを見れば、なにか同じ不幸で結ばれた人たちの共同体を思い浮かべてしまうかも知れない。しかし、作家は、それを否定する。むしろ、「不幸は(人々を)互に近づける」という考えに嫌悪さえ示している。括弧内のこのつぶやきのような一言は、彼女が難民の子としてフランスに生まれ、幼少期は難民キャンプのような「共同体」で過ごし、そこではスペイン語が話され、フランスにあってフランス人たちから疎外されているような場所であったことを考え合わせるとき、より意味深い。
 「束の間の共同体」は、苦痛を慰め合うような、互に「寄り添う」者たちの共同体でもない。何らかの人工的手段で引き起こされる陶酔状態、つまり「宗教的な」共同体でもない。
 つまり、過去に存在したであろう、そして現在も至るところに存在する、存在しうる、あるいは形成されつつある、それら「擬似的な」一切の共同体と「束の間の共同体」とは異なっているのである。もちろん、「約束の地」を目指して艱難を乗り越えていく「選民」たちの共同体でもないことは言うまでもないであろう。
 このような現在において、私たちは、共同体について何を語れるというのか、共同体について何かを語ることにどんな意味がありうるのか。
 ちょっと話が飛ぶようだが、一昨日から始まっている国際シンポジウムでの私の発表はあと三時間後に迫っているが、その中で私が問題にする時枝の「主体」は、まさにこの共同体についての問いと表裏をなしている。