内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「一里」考 ― 個体にその個体性を失わせ、吸収してしまう〈一〉の曖昧性

2017-03-15 11:31:58 | 哲学

 昨日の記事で取り上げた芭蕉の句「一里はみな花守の子孫かや」の仏訳が二種手元にある。一つは René Sieffert 訳(Bashô, Le Manteau de pluie du Singe, POF, 1986)、もう一つは Makoto Kemmoku & Dominique Chipot 訳(Bashô, L’intégrale des haïkus, Sueil, « Points Poésie », 2012)。順に両訳を掲げる。

Tous les habitants
de ces lieux descendraient-ils
de gardiens des fleurs

Tous ces villageois
seraient-ils les descendants
des gardiens de fleurs ?

 昨日の記事で引用した上野洋三の同句の注釈の主旨に従えば、どちらの訳も肝心な「一里」の〈一〉性を脱落させてしまっていると批判されなくてはならない。「一里はみな」がすべての住人あるいは村人たちという複数形に置き換えられてしまっているからである。しかし、これはこうするしかないだろう。他の欧米言語でも事情はおおよそ同様ではないだろうか。
 古代の花守たちの子孫でありうるのは、一つの全体としての「一里」ではなく、その全体集合を構成している複数の住人たちなのだから、仏訳における複数形の採用は、その意味で、まったく理にかなっているとむしろ言わなくてはならない。
 単複を厳密に区別するその論理に従えば、各個体にその個体性をあっさりと失わせ、そこに吸収してしまう処の〈一〉の曖昧性こそ、哲学的には批判的に問題化されなくてはならないことになる。